湖畔の左へ

生活するために書くブログ

植民地から愛を叫ぶ

自分が植民地化していると仮定する。

家の権化である母親に、家という私自身に由来しない法律を強いられ、どのように生活すべきかを規定する力を行使されるなどしている。

植民地とされながらも、入植者への愛も併せ持っている。愛ゆえに、家の法に背く行動を取りたがる自分は裁きを受けねばならない人間なのだ、という自己への否定的な感情を育てた。ゆえに自己評価が低く、あまり外向的でもなかったために、そのような自己評価を相対化する外部の指標の取り込みが乏しかった。家の法に照らした場合に、価値が低いという判断があっただけであったが、それが長期間に渡って続くことによって、その判断は内面化し、自分自身そのものの価値が低いのだというイメージを形成するに至る。

他からの評価に先回りするように、自身を過少に評価する傾向は、自身の価値のなさを頭から確信していることから来ている。自分の評価に揺るぎない自信をもっており、それは日常的に繰り返される判断の積み重ねが固着し、形となって現れたものである。理性の範疇に含まれるはずの価値判断が、その反復により内面化し、判断自体行う必要がないほどに実在性を獲得した、というのが今の自分の状況だ。

植民地化され、屈伏した奴隷の状態から立ち直るには、暴力が必要であり、幼少の頃であれば反抗期がこれにあたる。成人してからも、別に反抗期的に反抗してもいいのかもしれないが、そうしている自分が見えてしまい、ストレートに反抗できない。ただの暴力を気軽に行使できない年齢になってしまった。

酒井隆史『暴力の哲学』によれば、植民地闘争におけるネイティブの対抗暴力は、激しい憎しみからではなく、冷静な怒りからなされた方が有効に働くという。植民地化されていることについて、憎しみはほぼない。しかし怒りは溜めて、矯めてきた。長期間にわたって溜め込んできたので、冷静にもなれると思うし、実際に今、断続的に冷静な怒りを行使していると思う。ただ、これまで、冷静な怒りという概念をもっていなかった。これからは、新しい知識を取っかかりに、さらに踏み込んで実践できると思う。

真面目isクソ

実践の目下の目標というか、指標はこの一言に尽きる。陳腐な真面目さを一旦置いておいて、真面目じゃなさ、というところへ一度足を踏み込むべきだ。自覚的に、自制できるなら、ファルスに寄った価値判断を身に着けてもいいと思える。でも危険だ。そう思うのも、これまでの人生の積み重ねという簡単な判断によるのだろう。どうしたら、ファルスの方に寄っていけるか。

夢に、今でいうスクールカースト最上位の男が現れた。それは、全然やる気がなさそうで、もっと動いてくれとせがんでもほとんど反応してくれないのだった。でも、そういう人物が夢に現れたことは、非常に喜ばしい。既に決定的に変わってしまっていることを知らせる報告としての夢だったような気がするからだ。特に気負わなくても、既に変わっている。それは、これまでの苦しみがわずかな前進に寄与したのだ、という効力感をもたらしてくれた。

植民地の状態から、抜け出たい。物理的には、家を出ることだ。でも円満に家を出たいと思っている。これまで育ててくれた親への愛はとめどないし、自分はやむにやまれず家を出るのではなく、人生の新たな一歩を踏み出すために家を出るのだ。