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生活するために書くブログ

異世界生活系物語を考える件④

ついに「Re:ゼロから始める異世界生活」のアニメを観た。思っていた以上に面白く、心に刺さった。ただ面白おかしいだけでなく、今生きる人間を救い得る力をもった、素晴らしい物語だった。「リゼロ」の物語にかなり魅了されてしまっていて、冷静ではないかもしれないが、今日も「異世界生活系物語」を考えていこう。

異世界生活系物語について考える一連の日記の始めで、「異世界生活系物語」という名付けをしたのは「リゼロ」を念頭に置いてのことだと、今は明白なのだが、名付けた時はそれほど意識していたわけではなかった。「異世界転生系」と言わなかったのは、転生というギミックが、それら物語群の核心ではないと確信していたためだ。転生は、物語導入の技法として発明されたのではない。ゲーム的経験の積み重ね自体が物語られるにあたり、スイッチを入れゲームにのめり込んでいく私たちのお決まりの始まり方が小説の形式に翻訳されたとき、自然と「転生」というお約束に収束したのだ。昔話が「むかしむかし」と言って始まるのと同じで、転生は語り始めるための手段であって目的ではない。「生活」こそ、転生という手段をもって語り始められる対象であり、物語のメインテーマであると考え、「異世界生活系物語」と言い始めた。私たちにとって、生活とは何か。この世に命を得た私たちが、あえて為すべき生活とは何か。今改めて異世界生活系物語が問い直し、答えを出そうとしている。異世界生活系物語は正しい問いを立てた。そこに自ずと答えが、明日への活路が開かれる。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64174

この記事では、異世界生活系物語を育む土壌となった、小説家になろうというサイトを主眼に異世界転生物語の分析を行っている。作者と読者の距離の近さとか、ストレスフルな毎日の癒しとしての役割を異世界転生物語に見る捉え方、ゲームの要素への言及など、興味深い箇所が多かった。その中でも特に、「日常系」に触れているのがよい。異世界生活系物語は、日常系の流れを汲んでいると、私も考える。しかし、単純に接続されているわけではない。異世界生活系物語は、日常系を批判的に乗り越えた次世代の物語であり、子どもと親の関係にあたる。日常系という親がもつ構造上の欠陥を暴露し、寒風吹き荒ぶ物語の荒野に打って出ようとする、向こう見ずで美しい子どもとして異世界生活系物語を捉えるために、親である日常系のことを振り返りたい。

私は、日常系を物語と呼ばない。日常系には終わりがないからだ。語り始まりと語り終わりがあってこそ、物語と言えるのであって、日常系に分類される作品の多くは、語り始めることも、語り終えることもできないと考えている。日常系ではたいていの場合、主人公たちが活動する場所が複数箇所に固定される。箱としての空間があり、そこにキャラクターと季節ごとのイベントを放り込んだときに起こる化学反応を楽しむ。例えば「のんのんびより」では、匿名の田舎の集落を舞台とし、キャラクター達は基本的にその中で活動する。キャラクターもまた、その性質はあらかじめ「設定」として固定されており、作品の中で大きく設定が変更されることがない。

日常系とは、かわいらしいキャラクターが楽しいイベントに興じる見目麗しい瞬間を切り取り、無限に引き延ばすための形式である。キャラクター達は変化のない繰り返しの世界で延々と場所や各種イベントと掛け合わされ、永遠にエピソードを生み出し続ける部品として存在する。日常系作品のキャラクター達は、作品の中で本当の意味で成長することができない。年次が上がったり、年下の新キャラが増えたりしても、キャラクター設定・場所・イベントの組み合わせが増えただけで、キャラクターが絶対的に成長することはない。「のんのんびより」はとても好きな作品なのだが、その作品に触れている私たち自身に生きる指針を示す力はない。もちろんそんなことを目指している作品ではないということは分かっている。ただ、この「のんのんびより」については個人的に、日常系という形式に収まっているのがもったいなく思えてならない。主人公の一人である「れんげ」というキャラクターは、いつも奇抜な発想で行動する。初めは、そういう設定の集積とだけ見てエピソードを純粋に楽しんでいたのだが、夏休みに田舎へ遊びに来ていた友達が突然いなくなってれんげが泣くシーンを見て、彼女を部品と思えなくなってしまった。この子はこれから先成長していく中で、どんな風になっていくんだろうとか、色々な困難が待ち受けているのではないかと心配する気持ちが湧いてしまって、れんげの物語を見て見たくなった。しかし「のんのんびより」は、日常系の形式のどまんなかにあり、開始されたときのまま時間が進んでいかないのだ。不安定なれんげは、この作品の中では、田舎から離れないからどんな苦難にも見舞われないし、時間が進まないから成長もしない。今その作品に触れている自分の性質を投影したか知らないが、単なる情報の束ではない、その動向が自分に影響を与える存在に一歩進んでしまった「れんげ」というキャラクターが、日常系の形式の内側で宙づりになってしまっていることが、何か悔しく、もどかしい。日常系では、れんげを物語れない。「のんのんびより」2期である「のんのんびより りぴーと」という名前に、変化のない繰り返しという、日常系の本質が端的に表されている。2期のオープニングテーマ「こだまことだま」を担当したnano.RIPEの作詞者、きみコ氏は、次のような歌詞を残している。

”戻って歩き出す 宝物を閉じ込める場所を探して”

私には、「こだまことだま」が、1曲全体を通して日常系を暗に批判しているように思えてならない。正月には初日の出、春はお花見、夏は海水浴、秋はお月見、冬は雪遊び。「のんのんびより」では、暦がもたらすイベントをキャラクター達がしっかりと楽しむ様子が描かれる。そういう宝物としての日常が、設定によって築かれた目に見えない牢獄に閉じ込められている。私は、永久に時が止まった箱庭を見るよりも、箱が内外からの圧力で破壊され、その中で否応なく変わってしまうキャラクターの物語が見たい。スペクタクルを消費したいということでもない。語り始めと終わりで起きた変化は、それが切実であれば、どんな形であっても尊い。真摯に物語ろうとすれば、物語の登場人物は変化してしまうものと考える。語り尽くせないのなら、そのキャラクターは所詮記号の集積に過ぎなかったのだ。部品として使ってやって、せいぜい楽しいエピソードを量産する道具にすればよい。

「日常」とはなんだろうか。「まどかマギカ」では、日常を願って行動を起こすほど日常から引き離されてしまうジレンマを解消することができないまま、登場人物たちは日常と完全に引き離されてしまった。「まどかマギカ」は、日常という願いに身を差し出し、その後願い自体に切られることにむしろ退廃的な喜びを覚えるような歪んだ物語であり、物語として頓挫してしまっている。日常系の一つである「ひだまりスケッチ」の作者をキャラクター原案とし、監督、声優なども「ひだまり」と同じにすることで、日常系の文脈を組み込んで始まった「まどかマギカ」は日常系の枠を破壊することに成功したものの、破壊しただけで終わった印象がある。

「まどか」の彼女らが望んだ日常とは、「のんのんびより」の彼女らが無自覚に謳歌する日常のことではないだろうか。平穏な暮らしの中で、季節ごとのイベントを楽しみ、疲れて眠り、さわやかな朝に、今日誰と何をして遊ぶかについてすぐ考えが向くような…。しかしその日常と呼ばれているものは、ほんの一瞬しか訪れない奇跡が不自然に引き延ばされ、今に形を留めさせられている作り物だ。多分この世に存在しない。日常系は、存在しないものをもっともらしく騙り、私たちに甘い夢を見させてきた。実はもう私たちは、日常に永遠に辿り着けない。日常を相対化する視点が芽生える頃に、日常は私たちの元を去るのだ。そうやって失われた日常を、私たちは躍起になって取り戻そうとする。日常は、かつてあった、またはあり得たと信じられているが、どこにもない時間だ。取り戻そうと頑張る人の前にだけ立ち現れる。まず失っているという前提があり、それを手元に取り返すべきだという信仰を宿す、物語のひとつに過ぎない。だったらその物語を真正面から物語れ、と思う。(なんかまとまらないので、日常系についてはまた考える。)

今生きる私たちがつかむべきは、幻でしかない「日常」ではなく、「生活」である。では「生活」とは何かというと、まだ誰にも分っていない。「リゼロ」という物語の白眉、「いいえ、ゼロから」で終わる長いやり取りは、「日常」を追い求めることは止めよう、私たちの新しい日常をゼロから作り上げていこう、という宣誓だ。この新しい日常のことを、私は「生活」と呼ぶ。日常は常に過去にあると信じられている架空の時間だが、言うなれば生活とは、今生きている私たちに命の使い道を迫る焦燥感である。生活は時間ではない。生活とは、今この瞬間の決意であり、未来の根源となるものだ。何をしたかとか、結果どうなったか、ということが重要なのではない。今この時、自分自身にどれだけ真摯に向き合い、心が求める方向を直覚するか、これが私たちの生活の課題だ。

では「生活」は、自分の望む方へ進もうとする利己的な振る舞いを是とするのかというと、そう単純ではない。安楽な「日常」を捨て去って「生活」を志す者は、これから進もうとする道行きが厳しいことをはっきりと自覚している。生活を全うしようとする者、すなわち「生活者」がまず初めに確認するのは、「人は独りでは生きられない」ということである。日常という夢から覚めた私たちは、日常へ退行することができない。深刻に、後戻りの効かない、取り返しのつかない一歩を進み続ける他ない。そのような生活は、独りでは到底続けていくことはできない。誰かの助けが必要だ。だから、助け合える誰かを見つけて共に進んでいこうとすることが「生活」なのかというと、そうでもない。誰かの助けなしに、この「生活」を続けていられないことを、はっきりと知っている者はまず、誰かを助けるのである。

これからの英雄像とは、過酷な毎日を生きながらも、玉のように損なわれることなく、むしろ周囲の人間に許しや癒しを与えられる懐の深い「生活強者」だと思う。最近始まった「世話焼きキツネの仙狐さん」は、そこを明確に捉えていて魅力的ではあるが、仙狐さんが神様で、リソースを無限にもっていそうなので、私たちの生活を本当に救う英雄とは呼べない気がする。有限の命を際限なく燃やすことを厭わず、周囲の人間を救うことで同時に自身が救われてしまっているような者がもっている「生活力」が、異世界生活系物語で最上のものとされている。

今回は生活について、独りよがりに掘り進んだ。生活について、まだまだうまくとらえられていない。物語られる「生活」は、それを実現することのできないふがいない現実に対する理想だろう。では、私たちの現実の生活とはどのようなものか、次考える。

 

追伸:
異世界生活系物語のよいところはもう一つ、ゲーム的経験と生活、物語る対象が混在していることがある。今ゲームをしている私たちと、今生きている私たち、異世界生活系物語どちらも物語れてしまう。身近なゲーム的経験をもって語り始め、時に私たちの生活に切り込むような、硬軟織り交ぜた魅力的な作品生まれやすいのだと考える。