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Pure Japanese感想

『Pure Japanese』についてまとめると、日光江戸村という、江戸時代の日本を模したテーマパークを舞台に、ディーン・フジオカ演じる、忍者を演じる役者が、天性の嘘つきのくせに、純日本人的な精神性を無理やり装って、忍者というよりあからさまなヒーローとして、しかしヒーローと言うのが憚られる程残虐に敵を惨殺するも、窮地に陥った少女を救えないという作品だった。

複雑すぎる。

①メインの撮影地である日光江戸村を、劇中でも「日光江戸村」と明言していることが特筆すべきギミックで、全編にこの前提が効いている。日光江戸村を「日光江戸村」として扱うことで、視覚から入ってくる情報は江戸なのに、絶対に江戸ではあり得ないという認識が視聴者側に成立する。

ディーン・フジオカは、今の日本を代表するイケメン俳優だが、その容姿については、日本人離れした、どこか異国を思わせる美貌に魅力があるものと思う。そのような見た目の俳優に、「純日本人」的な役目を演じさせる時、視覚から入ってくる情報は「日本」的なるものから逸脱しているのに、設定上は「日本」的な人間なのだと思わさせられる。

③物語前半は無愛想ながらも、人助けをせずにはいられない人物に見せておきながら、後半では、実は嘘ばかりついて保身に血道を上げるサイコパスだと分かるのだが、前半に形作られた良い印象を引きずってしまい、後半に見方を変えることにストレスを感じてならない。

日光江戸村というテーマパークであるからこそ、劇中でチャンバラショーが行われ、それを鑑賞している人が映されていたが、それと同じ場所で行われる、よりリアルに血飛沫が上がる残虐な殺し合いを、『Pure Japanese』を見る私が鑑賞している、という構造を看取せざるを得ない。映画製作者の狙った効果であることは間違いないが、まるで罠にかけられたように、私達は『Pure Japanese』の構造に取り込まれてしまう。

⑤心臓の位置を銃で撃たれるも、手裏剣を胸ポケットに入れていて助かるという、非常〜〜に荒唐無稽な、コミック的な一幕が、全編に嘘くささや虚しさを纏わせる。そもそも、「忍者役の演者」が忍者風の格好して大立ち回りする虚しさがどこから来るかと言えば、「忍者」という「日本」的な存在こそが、後世作られたフィクションだからである。


総じて、「日本」的なものへの懐疑のレベルを飛び越え、有り得べからざるものとして指弾し、「日本」的なものを信奉する人間を挑発する作品になっている。これまで日本人は、過去のより純粋であったとされる日本人像を心の拠り所としながら、その日本人像の都合の良さ、虚ろさを意識外に追いやって美化する傾向があった。西暦2022年に生きる私達は、日本人と呼ばれてきたものを括弧にいれ、検証する役目を担うことができる。その作業の中で私達は、積み重なった「日本」に依拠することはできない。「日本」なるものを差し引いて私達が自分自身を観察したとき、そこにあるのは、ディーン・フジオカが演じたように、見た目はいいが利己的で、他者への共感能力が欠如したサイコパスのような存在ではないか、という警句を『Pure Japanese』は発している。