湖畔の前後へ

活動するために書くブログ

最近聴いている音楽(2026春)

2026春は、namitape氏のhetoheto room全曲をかなり聴いているので、全曲感想書く。

 

①nawatobi drive

きみの目はいつのまにか だれもきみを期待してないけど 

冒頭から緊張感がある。霞がかった歌愛ユキのボーカルと、音の感じが、大貫妙子っぽいなと思った。大貫妙子の『都会』は、「その日暮らしはやめて〜」で高く転調し、上昇していくような浮遊感があるが、なわとびドライブは途中まではキラキラ音でウキウキしていたところに、1オクターブ低い曇ったボーカルとドスの効いたバスドラムが入り、浮かびあがりたい体をグッと押さえつけてくる。普通のJ-POPなら、Cメロで押さえつけてからラスサビで解放して、気持ちよくなるパターンだが、なんと抑えつけたままフェードアウトして終わる。最初に聴いたときの衝撃がすごかった。アルバムの一曲目で、聞き手にものすごいストレスをかけてくる。ポップスは、聞いて気分が上がるものかと思っているが、nawatobi driveはポップスとは言えないのかもしれない。

この曲を聴いて恐ろしくなって、最近の音楽の聞きやすさを思う羽目になり、リスナーへのサービス精神をアーティストが発揮してくれているから、盛り上がれる、という図式まで確認してしまった。最近は、好きな曲を聞いて好き勝手に書き散らしたりしているが、実は好きになってもらいやすいようにデザインされた曲を、案の定好きになっているだけではないか?アーティストとリスナーではなく、製造者と消費者の構図になっている。もちろん音楽の才能のあるアーティストから、リスナーへ届けられるという傾きはあるものの、もう少し互いが対等に向き合うような雰囲気になってもいいのかもしれない。音楽は、内側に社会の流行や、タイアップしたコンテンツの要素を流れさせるためのメディアになれるが、音の鳴り自体を届けることを目的に据えることもできるはずで、それに耳を傾ける聞き手が鍛えられていくべきなのではないか。

歌愛ユキの再ブームに至るまでのVOCALOID文化は、昔から今も商業的に強い仕組みが現れていないように見える。楽曲をサービスとして売るということから自由であり続けている。CEIPAは、MAJでJ-POPを再定義して、延命を図っているが、J-POPは結局、アーティストや事務所のサービスを売り物とした金儲けの手段でしかない。nawatobi driveを聴いて、なぜ恐ろしくなったかというと、お金の匂いがしない、純粋な音楽がむき出しでぶつかってきたような、通り一遍の挨拶で済まそうとしたら、やたら深い話を仕向けられ、回答を求めてきたような、または、辻斬りに勝負を持ちかけられたような、安全だと思っていた動物が急に牙と爪を剥き出しにしてこちらを睨んできたような、とにかく、聞き手に何かアクションを強いる攻撃性を感じたためだ。

 

②masshiro sunday

今度はYMOを感じる。懐かしさのある電子音と、軽快な4つ打ちドラムの組み合わせだからだろう。YMOと同時に、Perfumeも感じたので探したらリニアモーターガールだった。歌愛ユキがアイドル成分を担っているから、テクノポップと合わさると末期YMOや初期Perfumeを感じるのだろう。

歌詞は、写真をパシャパシャ撮って楽しくなっちゃおうみたいな感じだが、撮った写真が保存されているはずのフォルダには、大量の真っ白な画像が入っているのだという。恐らくその真っ白な画像は、日々思い出として撮ったはずの写真なのではないか。それに気づいてからさらに歌詞を読むと、泳げるような場所も、おひさまも、「君」も、本当は何もなくて、ただの白くて四角い部屋にいるだけだから、写真を撮ってもただの白い壁の画像にしかならないのだと気づいてしまった。

いよいよ現実味をもって開発されそうなVR空間を連想する。例えば「超かぐや姫!」式のコンタクトタイプや、そこまでは無理でも「電脳コイル」式のメガネタイプだったとして、部屋でVRに入った状態で、VR上の友達を撮るつもりで、リアルでスマホで撮ったなら、部屋の壁だけが写った写真になるだろう。VRがLINEのようにメジャーなSNSになったら、とにかく今より楽しくなるだろう、と楽観的に考えていたけれども、当然VRとリアルが乖離することには問題がある。もし、VRの方が楽しくて、リアルを回していく力がなくなってしまったら?VRがあることで、むしろVRもリアルも等しく虚しい場所だと感じてしまったら?新しい恐怖の予感がする。

 

③shiawase siren

内省的な歌詞と、中途半端に明るい曲調がマッチしていないから、聴きにくさを感じる。これは批判しているのではなく、消費されるために作られた、おいしく調理された音楽とは違う、消費しにくさに価値があると思っている。歌詞を眺めていても、ストーリーが汲み取れない。早く何かを「わかって」しまって、一旦脇に片付けてしまいたいのだが、何度聞いても、「shiawase siren」としか言えない。主張したいことは何なのか、描いているのは幸せなのか、幸せではないことなのか。分かれていない複雑な何かが、デコレーション無しにそのままの形で提供されている。何かをシェアするときは、シェアする対象の見栄えを調整する文化が浸透してきているが、この曲からは、そのような調整の雰囲気を感じない。ある意味、自然なのかもしれない。消費しやすいように加工されたものは不自然だと思っているので、その裏返しだ。

ここまで書いた後聞き込んだので、歌詞について頑張って解釈してみよう。劇的なことは起きていないが、何かが確かに変わっている。サイレンは、主に危険を知らせるために鳴らされる。サイレンが鳴るのなら、どこかで危険が発生している。でも、ここではない。どこか別の場所に危険がある、という情報だけを受け取っている状態だ。自分自身は具体的な危機に瀕してはいないのに、危機がある、という情報があるために、無意識のうちに危機に対処できるように準備してしまう。そのような状況を、幸せだった、と言っている。歌詞の最後に「僕は二度と目を覚ますことはないだろう」とある。歌詞世界の中では、認識の転換がある。過去の幸せは、「目を覚ますこと」の下にあったが、今の幸せは、「目を覚まさないこと」の下にある、というように変わったと考えられるのではないか。サイレンは、大きな音がするはずだ。サイレンによって、目を覚まされる、という生活がある。そのような生活は、一見すると、危険の存在を事前に察知し、準備できる、というメリットがあり、そのメリットを享受できることは、幸せな境遇なのかもしれない。しかし、リアルの社会で伝わってくる危機の知らせは、99.99%以上自分と直接関係がない。危険と自分は本来無関係で、「届くはずがない」のに、サイレンという仕組みと、その仕組みから送られる音が、無理やり関係を結ばさせてくる。

危険を知らされると、その情報の受け手は、何かしらのアクションを迫られる。何もしない、ということすら、選ばされた行動になる。もしサイレンが頻繁に鳴るなら、私たちはその都度右往左往させられるが、サイレンを成り立たせている仕組み側からは、そのように対処できることを喜ばねばならないと、思い込むように仕向けられている。サイレンというと抽象的だが、スマホに来るあらゆる通知にも、似た性質がある。通知が来るだけで、そこに行動が予約される形になる。予約は積み重なっていき、対処せずに時間が経てば、対処しなかった、という灰色の事実がゴミのように残っていく。そして、サイレンを受信するという「幸福」を受けながら、ゴミを散らかすことは、サイレン送受信者の会においては倫理的な悪として批判される。でもこんなのは、やっぱり幸福ではない。動くことをやめ、耳をふさぎ、目を閉じて、「幸福」であることをやめて、自分にとって本当に大事なのは何かを感じ取り、現実を回復すべきだ。

 

④tameiki continue

もやがかかった迷いの森で同じ場所をぐるぐる回っているような曲なのだが、突撃する鼓笛隊のようなフレーズが定間隔で繰り返されるのが怖い。リセットする度に記憶を失うタイプのループものを見ているようだ。リセット直後は意気揚々と歩き出すのに、その後はループのデジャヴ感覚に捕われて、手と足がバラバラになっていき、同時に全てがゆっくりとなっていって、ため息と共にリセットされる。歌っている主体が物語の主人公だとしたら、何か病的な状況に陥っていると、音楽によって伝わってくる。

 

⑤aozora hole

あずまんが大王のアニメOPの、空耳ケーキを連想した。日本語表記にすると曲名が似ているのが怪しい。ホール(whole)ケーキという言葉とも洒落がかっている気がする。曲調も少し似ているが、aozora holeは途中からコズミックなブレイクビーツに展開する。去年「スーパーに閉じ込められた僕ら」でコラボした、DÉ DÉ MOUSEのtide of starsあたりの昔のキラキラ系のアルバムを思い出した。「誰もわからない 私の音」がこの音なのだろう。この世を縦にぶち抜く穴の上、天上から響く音として納得感があるのは、地上から空を見上げる視点が先に描かれているからなのかもしれない。

「まるでかわず」って、やっぱり井のなかの蛙のことなのかな。蛙の世界は、上に大きな穴が空いている。本当は蛙の世界そのものが穴なのだが。これを人間に置き換えるとどうだろう。もし、この世界の上に穴がたくさん空いているとして、その穴を上から覗いたらどう見えるか。問題は、排水溝のように、上側に穴が沢山空いていて、中はひとつの空洞なのか、それとも、レンコンのように、ひとつひとつの穴が別個の空洞になっているのかどうかだ。この後のhetoheto roomに繋がるのは、レンコン状の穴が空いている説の方な気がするので、レンコンイメージで進めようと思う。

私たちは日々連携しているように感じているが、それは頭上の穴を介した通信がそう見せているだけで、実際にはお互いに孤立している。その様を端的に表すと、巨大で無数の穴のあるレンコンを、垂直に置いたイメージになる。活動する個人の周囲だけを縦に切り取るように、穴は空いており、個人が動けば、穴も動く。世界をそのように捉えてみる。「支えてるのはあなたじゃない」という歌詞があるが、この世界がレンコンなのなら、その穴である私たちは、この世界の一員ではあるかもしれないが、レンコンそのものの構成要素には全く関わりがないことになり、それはそうだなと感じられる。しかし、穴自体である私たちは、自身の実体のなさをどうやって見て取ることができるだろうか。人間特有のメタ的なものの考え方を発揮し、人間を、口から尻までを穴で貫かれた、縦方向の空洞だとして、また、社会は、その空洞の雑多な集合だとすれば、見て取れるかというと、難しい気はする。aozora holeという物語に立ち返ると、天井の穴からは音が聞こえるという。人々は普段、左右の耳を塞いでいて、その音を聞いていない。aozora holeでは、その音を聞くことによって天に浮上し、穴をくぐり抜け、レンコンの上に出て、レンコン以外の穴としての私たちを見て取れるようになる様子が描かれている。天の音というのは、ピンとこないが、まず自分が孤立した空洞かもしれない、と勘付いた後の段階の課題として、それでも遥か彼方では繋がっているというか、レンコンの中の穴が穴の外と切れ目なくつながっているように、自分と他者は根っこ(または天辺)の部分は同じ一つなのだ、と気付く季節というものが、人間社会にいつかは訪れるのではないか。

つまり、半分に切ったレンコンの穴を地ではなく、図と捉え、かつ、レンコンの穴の外側をも図の一部として見ると、無数の足と、無限に広がる頭を持つタコのような立体が取れる。(断面と反対側の穴は塞がっているものと考えた場合、)トポロジー的に圧縮していくと、これはドーナツ状ではなく、ボール状になる。よって私たちはひとつのボールの一部に過ぎない。こんな感じでやっていくと、レンコン教という宗教になりそうだが、その宗教の讚美歌は、天上で鳴っているのではない。あくまでボールにおいて鳴っているのだが、なぜか地上にぐいーっと伸びた穴たる私たちは、誰かが地上でけたたましく鳴らすサイレンなどは聞いていても、ボールとして鳴る音声の方は耳を塞いで聞いていないことが多い。しかし常に空の上で音がなっている。誰かが鳴らしているのではない。ボール=私に開かれていさえすれば、その音は誰にとっても私の音、私が鳴らしている音なのだ。

 

⑥darekano mall

私の、ではなく、誰かのショッピングモール。大名曲「スーパーに閉じ込められた僕ら」の前か後に置いても違和感がない。遠くで鳴っていた音が、途中から私の側で鳴るときに、一定の間隔でスピーカーが設置された無限に広がるモール空間を水平方向に吹き飛ぶ感じがする。楽しくなるが、でもここは私の居場所ではないんだ、と思い直し、悔しさと寂しさを噛み締める私を置いて、モール空間は続き続ける。もしかすると、私の位置は何も変わっていなくて、モール空間だけが縦横無尽に動きまくっているのかもしれない。

何度か聴いていて、ヴェイパーウェーブというジャンルを思い出した。2019年の面白い考察があった。

 

https://mercuredesarts.com/2019/05/14/diary-heisei_era_devastation_2-vaporwave-noirse/

 

ヴェイパーウェーブは、ネット文化が一般に浸透した結果、明確な創始者がない中で、これといった由来なく形成されていったジャンルで、資本主義批判、反消費社会の側面があるという。ショッピングモールという主題は、ヴェイパーウェーブの文脈に則っている。私の、ではなく、誰かの、と言った途端に、darekano mallは消費社会と一歩距離を置き、批判的意識の俎上に乗せられる感じがあり、歌詞がなく、暗い曲調でもない割には、消費社会批判寄りの印象を受ける。

無限に広がるモール空間のイメージは、ネットミームのリミナルスペースを念頭に置いている。「スーパーに閉じ込められた僕ら」は、The Backroomsの用語が歌詞に入っていたが、ナミテープ氏が製作したPVは、スーパーマーケットのモチーフがメインだった。無人のスーパー、ショッピングセンター、モールも、リミナルスペースの代表例だ。リミナルスペースとは元々は、部屋と部屋をつなぐ廊下や階段、部屋と部屋の間を埋める空間を指す建築用語だったが、ミーム化したリミナルスペースの方は、人工的だが、無人で、不気味な空間を言うようだ。

この不気味さ、という印象から、aphex twinまで思い出してしまった。DTMの黎明期の時点で、工業的な構築物として作られる音楽には、人間の不在感があり、不在のまま展開し続ける様が不気味さや、恐怖の新しい源泉となることを予知していたかのようだ。リミナルスペースの恐ろしさは、人工的な空間が、人の手を介さずに、切れ目なく無限に繋がるところにもある。リミナルとは、中間領域という意味がある言葉で、始まりでも終わりでもない、過渡的な状態を指す。リミナルスペースというミームは、このリミナル性が自己完結的に永遠に続くことへの不快感、恐怖感が表現されたものと言える。抽象的に考えると、リミナルスペースは、反人間的なのだと思う。フィクションで永遠の命というテーマがよく扱われるが、それに対する回答としては、無限の生より、有限の生を選ぶ傾向がある。これは、「無常」が人間存在の真理であると考える人が多いためだろう。この世のあらゆる物、事には始まりと終わりがあり、その始終の連続の積み重なりが、この世界を形作っている、というのが無常観であり、人間観だと思うが、リミナルスペースはこれに反している。始まりも終わりもない人工的な仮想空間は、無限の生に近いものだ。(有限の生→無限の生に移行した場合は、始まりを黒く塗り潰す効果がある。それは忘却、逃避、不遜、侮辱など、様々な罪として名付けされる。)

darekano mallは、フェードインで始まり、フェードアウトで終わる。元々そこにあるmallに焦点を合わせることによって曲が始まり、しばらくしたら焦点を外すことよって曲が終わる。しかしこの視点の持ち主が不在でも、mallはこれまでもこれからも存在し続ける。ショッピングモールという建物には確かに、竣工と解体という形で、始まりと終わりがある。しかし、ショッピングモールという仕組みには、実は始まりも終わりもない。私たち人間と、本質が根本的に違うから、私や私たちのモールではなく、誰にとっても誰かのモールなのだ。

 

⑦hetoheto room

昭和歌謡のようなエフェクトが曲全体にかかっている。昭和の日本は、あちこちが発展途上で、時間の経過量と社会の改善度合は比例して増加すると、何となく信じられていたのではないかと思うが、令和の世では、これ以上は無理なのかもしれない、という頭打ち感が強くある。さらに、個人間の横の連帯が限りなく薄くもなっている。少し頭を掠めるのは、クルド人や中国人は、比較的少数で異国に住んでいるから、日常的に連帯をしているが、今の日本人から見て、その連帯感を少し羨ましく思う所があるのではないか。人間関係の煩わしさからなのか、血縁、地縁を離れて、様々なソーシャルネットワーキングサービスを駆使して、関係維持にかかるコストを最小にする努力を各自がしている気がする。それで生活は続けられるが、どこか疲れが取れない。一人ひとりが一人ひとりだけの小部屋で疲弊している、というイメージが、「へとへとルーム」というタイトルに込められているように思う。「ルーム」からは、The Backroomsも連想される。The Backroomsのレベル1は、無人で不気味なオフィス空間が際限なく続く空間となっているが、現実においても、会社が用意する、綺麗に仕切られ、誂えられた無機質な部屋は、この社会にほとんど無限に存在している。そのような部屋は、抽象的に「ルーム」とカッコ付きで呼び表すべき、何かである。

私たちは疲れている。なら、疲れのリカバリーを図るべきなのではないか?「ルーム」は、社会から押し付けられているもので、そこから離脱する最も単純な方法は、社会から独立して自給自足するか、日本国外に出るか、になる。しかし現実的には、そう簡単にはできないので、別の方法を探るしかない。「ルーム」の内側に居ながら、「ルーム」に起因する疲れをコントロールしなければならない。そうなると、どうしても「ルーム」とは、メタ的な距離を取る必要がある。「ルーム」のなかでへとへとな自分をまず第三者目線で捕捉しなければならない。人間には、こういうことができるはずだ。どんな地獄であっても、物理的に命が脅かされない限り、仮想の空間を作ってそこに逃げ込み続けるような認知活動をする機能が、人間の知性には備わっている。仮想の空間を作る、というのは、言い換えれば、逃げ出そうとしている「ルーム」の存在を信じる、ということかもしれない。そして、「ルーム」において、へとへとになって閉じ込められている私がそこにいるのだと信じ、その私を救うのだ、救いたいと信じる。そうして初めて、私は「ルーム」の外側から、内側にいる私を救う手立てを考え始めることができるようになる。

「ルーム」の中のものを、外に出すのは難しいので、出さないままで、リカバリを図る方向で考えようとしてみる。ここからなぜかゲーム的になるが、「ルーム」内の私に回復魔法をかける、というイメージはどうか。もちろんリアルに魔法が使えるなどとは思っていない。そもそも「ルーム」という何かが観念の産物なので、「ルーム」内の私に干渉できるのもまた観念だろうと考えている。そして現在の私たちに馴染み深いゲームという大きな情報の束と、それなりの時間が嵩んでいるゲーム体験が、実体のない「ルーム」に対して有効な武器になるのではないか。

自分に対してリカバリーをかけるようにする、とはどういうことか。身体の凝り固まった箇所に気を配って、身体がほぐれるように日常の動作を工夫する。癖や習慣が疲れの原因になっていないか点検し、やめられることなら少しずつ改善するように努力する。軽い運動や深呼吸をするための時間を少し取って、適度に継続的に実践する。身も蓋もないことばかりだが、重要なことは2つある。まず、身体感覚への集中が必要だ。私たちはスマホやディスプレイといった、身体の外に集中する時間が多すぎる。自分の肉体、ひいては精神に集中する時間をもつべきだ。内側に集中することで、「ルーム」に閉じ込められている私が浮かび上がって見えてきて、リカバリーを図れるようになる。逆に言えば、「ルーム」にいる私をリカバリーできるとき、私は自分以外の物事から自由でいられている、ということであり、自由であることが、リカバリーの本質にある。

2点目は、リカバリーに、ゲーム的なイメージを援用することだ。ショッピングモールとは、物理的な建物と、ショッピングモールという仕組みが重なった空間のことを言う。「仕組み」とは、ルールの集合であり、ゲームもまたルールの集合である。そして、「ルーム」とは、物理的なオフィス空間に、会社または社会の仕組み、ルールの集合が憑依した場所だ。ルールには実体がないが、そのルールを守る人が多くなるほど、そのルールには存在感が出る。現実に存在する空間が枠となって、非実在のルールに、輪郭を与えるためだ。そして、ルールが詰まった箱の内側で疲弊するのは、箱の内側で、ルールの一部として絡め取られているためではないか。前に書いたように、物理的に箱の外側に出ていくのは難しいことが多いので、箱を客観視し、ゲームという、より大きな箱に収め、自身はそのプレイヤーになるという形で箱から幽体離脱する。ゲームの中の自分を癒したいならば、回復魔法をかけるイメージで具体的な行動を取ればよい。まあ、賢い人は誰に言われずとも、このようなことを自然とやっている気がする。その辺が自然にできない人は、まずゲームのイメージを持って臨むのがいいのかな、と思った次第だ。

 

⑧sakasama reset

いつだって私はめちゃくちゃにする

準備はできてる

つまらない世界はみんなで破壊しよう、私は準備できてるし、積み上げたものが全部なくなっても大丈夫。つまらない繰り返しよりマシだよ、壊そう!という熱いメッセージが、思いのほか強く、社会的なアジテーションとして響いてくる。この説得力は、冒頭から大気が覆いかぶさってくるようなプレッシャーを与えるなわとびドライブから始まり、私のためにあるわけではないショッピングモールや、不気味な空間の無限の連続の中で振り回され、疲弊させられる様を、アルバムの各曲で追体験した末に聴くから、生じてくるものだ。

500人くらい、という数字について、最近オードリー・タンのプルラリティで学んだ、ダンバー数がぴたりと当てはまる。人間が安定した社会関係を維持できる人数の認知的な上限を、階層的に区分けしたもので、巷では、500人は会えば会釈する程度の知り合いの数の上限とされている。生きていれば自然と人間関係は積み上がっていくようだけれども、実はSNSをフォローしたり、友達追加しているだけで、親密な関係構築できている人数は思っているより少なさそうだ。SNSのアカウントを消して、関係を丸ごと消してしまう人がいるが、逆に言えば、SNSのアカウントさえなければリセットされる程度の関係でしかなかったということでもある。積み上げたと思っている何かは、こんな感じで、内実の伴わない物ばかりになっていないか?そんなものは全部ご破算にしてしまっても何ら問題ないし、むしろ現実的な繋がりを取り戻す良い機会ですらあるのではないか?そういう問題提起がされている。リセットして始めて、本当に大切なものが見えるようになる。現実が、私たちに息をしにくくさせるなら、そろそろ私たちが前提と思っている現実を疑ってもいい頃だ。生きている時間が積み上がるほど、私たちは誰かの作った仕組みや、自分の作った仕組みが何層にも重なってできた部屋の中に閉じこもるようになる。私たちはそこへ、本当に望んで入ったのだろうか。丸ごと抜け出ることは、もはや難しいが、仕組みの一つや二つくらい、壊さないで、どうして生きているといえるのか。壊すといっても、暴力や、権力でねじ伏せては、別の仕組みを作ってしまうだけだし、仕組みをあげつらって非難するのも、陰謀論に陥る危険がある。仕組みの中で働きながら、仕組みからはみ出すことを同時に、くり返し行うのがよい。そうやって少しずつ仕組みに揺さぶりをかける。すると、時間をかけて仕組みを成り立たせている根元が柔らかくなっていき、いつしか仕組みに実体感がなくなる時が来る。その様をぎゅっと縮めて見たなら、壊したという表現が当てはまるだろう。ここでまた、Perfumeを思い出した。

 

とても大事な キミの想いは

無駄にならない 世界は廻る

ほんの少しの 僕の気持ちも

巡り巡るよ

くり返す このポリリズム

あの衝動は まるで恋だね

くり返す いつかみたいな

あの光景が 蘇るの

 

sakasama resetの「くり返す景色は 似たものばかり つまらないでしょ?」という歌詞からの連想なのだが、妙に近さを感じる。今までポリリズムの歌詞について何も考えてこなかったのだが、くり返しの中で生きざるを得ない、という前提においてもなお起きる衝動が、くり返しをほんの少しだけずらしていく、と歌っているのかもしれない。この世界の大きさからしたら、何の意味もないようだけれど、全くの無駄にはなりようがないという、ある種の祝福が込められている。

ポリリズムとは、一つの演奏中に、複数の拍子を同時に演奏することで、独特の効果を狙う手法で、Perfumeのポリリズムでも、「ポリリズム」とくり返し歌っている部分は、四拍子のまま、五文字を乗せていて、拍子と単語の文字の位置が一文字ずつずれていくようになっているらしい。拍子という仕組みをキープしながら、中身をずらして、全体としてのあり様をダイナミックに変化させる手法だともいえるだろう。つまり、仕組みを維持することと、その内実をずらすことは、同時に行える。そしてずれが揺らぎを生み、時には、仕組みそのものの性質が変わる場合もある、ということだ。

最後に、タイトルの「逆さまリセット」について、何が「逆さま」なのかを考えてみよう。私たちは一日一日をくり返しと思っているから、一日単位の時間の積み重ねがあると信じたい生き物だが、過去と現在の関係は、そう単純ではなく、現在の認識が過去を全部塗り替えてしまうこともある。過去の寄り集まりが現在を作っているのではなくて、あくまで現在を基準に、過去を取捨選択しているのではないか。積み上げたと思っている過去は、現在の自分が選んだ(、または、誰かに選ばされた)結果に過ぎない。何を選び取るか、というところは本来自由なのだが、過去がこうである私は現在こうである、という思い込みが強いと、柔軟さがない状態になってしまう。沢山の自己イメージが連なる、不連続な自分史の先端、または頂上にいる、というイメージを持っているとしたら、そこに転倒がある。現在の自分は、過去をどのように選び取るかという現在の価値判断によって決まっている。過去によって決まるわけではない。現在を変えようと思っても、過去がそうさせてくれない、という言い訳は基本的に成り立たない。今ここの自分の思想を根っことして、その上に乗っかっているものが過去なのだ。逆に言えば、乗っかっているものを全部どかし終えたとき、残るのは今ここの自分の思想であり、思想の内容を点検し、過去を編成し直し始められることが、「リセット」の最大のメリットになる。『少女終末旅行』の最後に、「生きるのは最高だったよね」というセリフがある。「生きるのは最悪だった」と考えたなら、道行きは最悪だったことになる。最高だったと今考えるから、過去が全部最高になる。今と切り離されて、最高の過去と最低の過去があるわけではない。リセットは何度でも試すことができる。リセットできる限りは、いつでもいつまでもリセットできる。

最近聴いている音楽(2025冬)_青い時代との再会

①LAVALAVA/Number_i

「あの日の後悔」は「すべてが青zone」という歌詞はATAMIにもある。同じモチーフで2曲できてしまったが、両方リリースすることにしたのかもしれない。青色からは様々なものが連想できる。海や空の青、ATAMIでは自然の青が中心にある気がする。沖縄の海岸で撮られた北野武のソナチネとは違うけれども、熱海でロケをしたエピソードが呼び起こす海の情景、キタノブルー、孤独・憂鬱・悲しみのブルー、青春の青がいい感じにシェイクされた、深みのある名曲だと思う。LAVALAVAは、車やバイクに乗ることや、レース、発電所のモチーフが出てくるが、これはINZMやGOD_Iにもあったものだ。今までにリリースされた曲の要素が散りばめられている。青のイメージが、LAVALAVAという曲にあまりはまってない気がする。そもそもLavaってLoveのスラングである以前に、溶岩という意味だから、メインカラーは赤になりそうだ。その辺を加味してか、MVは赤と青が混ざったような夕暮れの景色になっている。

楽曲については正直、ああこの感じね、という感触があり、目新しさは薄かったのだが、その中でも、Number_iとしての一貫性、作家性を一番感じるのは、海抜0メートルのレベルでレースを全力で走ることと、レースを走らされていることを俯瞰して見ることの両方へ、意識を均等に振り向けているあり方の独特さだ。例えるなら、選手でありながら、コーチングを自分でしているような感じだ。事務所で何から何までをディレクションされていた頃は、全体を俯瞰して見る視点なく、海抜0メートルの道路(または迷路)をとにかく疾走していたのが、事務所を出て初めて、そのようなあり方だった過去の自分と、視点を手に入れたのではないかなと想像している。

この曲も、神宮寺パートが格好いい。「ガソリーナ満タン」あたりの語感が気持ちよすぎる。発声に迷いがないから、リズムの一番いい所をぶち抜いている。プエルトリコのレゲトンというジャンルのアーティスト、ダディー・ヤンキーの「Gasolina」を参照しているのだろうか。猫ちゃん(女子)にガソリン充填してテンションぶち上げで乗り回して行こうぜ、みたいな曲らしい。レゲトンはスペイン語で、1990年代にアメリカのプエルトリコ系のDJやラッパーが、サルサをはじめとするラテン・リズムや、ヒップホップ、レゲエなどをミックスして作り上げた音楽のスタイル、なのだという。聴き比べると、全体の曲調が低く抑えられているスタイルが、Gasolinaと似ている部分があるかもしれない。レゲトンの歴史を少し調べると、Shabba Ranksの「Dem Bow」という曲があった。サビでDem Bowと繰り返し歌う感じが、LAVALAVAと似通っている。新しい感覚でラテンの文脈を取り入れた楽曲は、モダン・ラテンと呼ばれて世界で流行っているらしい。Number_i当人か、作家陣の発案かは分からないが、その辺りを勉強した上で、世界の方を向いた楽曲作りを頑張っているな、と思った。

 

②ピクルス/こっちのけんと

マクドナルドとのタイアップとのことで、マクドナルド界隈の、無条件に明るい、コマーシャリスティックな雰囲気を纏わせようとしたものの、逆にとんでもなく暗い、楽しくない、しかし人間的な「青」を抱え込んでしまっている。マックでアルバイトするというのは、この世界の主人公にのみ許された青春イベントな気がする。こっちのけんと氏は、ハンバーガーを食べるのが好きなのであって、マックでアルバイトしようなどとは、かけらも考えたことがないタイプだとお見受けしていて、今回マクドナルドからのタイアップを受けたとき、マクドナルドでハンバーガーを提供するバイト側の視点を考えずにはいられなかったものの、経験がないものだから、普通バイトをするような年齢の頃、どうだったのかを思い返したのだろう。ここからは完全に自分事になるが、コンビニとか、ハンバーガー屋とかは、スピードと手数が重要そうな難しいアルバイトだ、という偏見でしかない認識があって、バイトをするかどうかを検討することすら、120%あり得なかった。そんな難しいことができる人間ではないし、難しいことができるようにもならないだろうし、ひいては、難しいことができるようになることを望んですらいなかった。当時、これでいいのか?と思い立つことがなかったからといって、今振り返って、それでよかったのか?という思いから逃れることはできない。アルバイトとは、細かく沢山の失敗をできる、社会が用意してくれた機会だと捉えた途端、そのチャンスを掴みにいかなかったために、色々な成長の芽を捨ててしまった、という反省に直結するけれども、こういう類の反省はあまり意味がない気がする。選ばなかった道、渡らなかった橋を想う意義があるとすれば、今の自分がどのようであるかを、来歴の裏側から推し測るような営みにおいて、あくまで今をドライブするための仮想の燃料として、本来切り捨てて何もないはずの可能性の空間に重みをつけることが、一時的な意味をもつことはあるだろう。一時的、というのが大事で、長期間抱え込みすぎると、精神が耐えられなくなる。日常から得る情報のほとんどを忘れる機能があるから人間の脳は動けているのに、可能性の束のようなものを保っていては、身動きが取れなくなっていく。

「熟す」という単語が出てくるが、ほとんど忘れていた。単に仕事をこなせるだけではなく、人間力と呼べるような総合的な力が備わっているように聞こえる。とっさの判断が臨機応変にできることには憧れがある。ただ、マクドナルドでバイトすることについては、こうすればいいよ、というマニュアルがあって、最初はそれに従って動き始めればよいのだろう。人生にはマニュアルがない。人間が一人ひとり違う存在だからだ。成り立ちの違う複数の人に、同時に有効なマニュアルがあるとすればそれは、一人ひとりがもっている「世界に一つだけ」の部分を見ないことによって成り立っている。マックでバイトして得た対応力が、「世界に一つだけ」が書かれていないマニュアルを立脚点としていると考えるとどうだろう。絶対に手に入れるべき機会だとも言えなくなってくる。もちろん社会では、「世界に一つだけ」の部分の発揮を抑えて、周囲の人々と協調した関係を構築することが多くの場面で重要だが、「世界に一つだけ」の部分を立脚点として、一人ひとりの成り立ちに寄り添うテキストを作成する人がいていいのだし、その代表がこっちのけんと氏なのだ。社会がハンバーガーのようなものだとしたなら、そのような人は青いピクルスのようなものだということだ。

 

③Share/YUKI

沢山なくても満たされるような あたたかい光 集めてる 君にひとつあげる

人生ですべきことはこの歌詞の通りで十分なのではないか。色々な苦しみの雨が降ろうとも、目指すべき方向は昔々から何も変わっていない。まず、どうしたら自分の心が満たされるのかを知ることが一番大事で、知らないまま当て所無くさまよってしまうと、目立つものに引かれて無駄足を踏む羽目になる。社会や個人の余裕が少なくなり続けている今こそ、自分自身に立ち返って、自分にとって何が大事なのかという重心を感じながら物事を見聞きするようにした方がよい。そして心からの楽しみを人生に見つけられているのなら、そのほんの一部だけを他人に見せられるとよい。見せすぎては、自分の具体的な楽しみが曇るかもしれないし、自分のことばかりを伝えても、うっとうしくなるだけだからだ。少しシェアする、という行いは、個人と個人の間に横たわる無限遠の隔たりの空間に向かって、シグナルを送るようなもので、ダイレクトな返信は期待しないで送り続ければよい。シグナルを送っている経験があるから、どこかからのシグナルの存在にも気がついて、キャッチすることができるかもしれない。そのシグナルが直接、私たちを満たすわけではない。「満たし」はやはり、何か形ある外側の物によってではなく、私たち自身に起因して在るものなのだと思う。そして「満たし」の存在証明をシグナルとして送受信すること、または、私たち人間がもつ、ただ満ち足りることを知る力を相互に確認し続けていく営みが、人間として生まれた私たちの仕事の大きな部分を占めるのではないか。

 

https://www.yukiweb.net/share/

 

このインタビューを読んですごく勉強になった。

私のエゴ コントロールが利かない

あなたの青に染まりたいや

最高の解像度なら分かりあえるか?

の部分について、自分をコントロールできないのに、どうして他人と分かりあえるのか?(いや、分かりあえない)という考えがあるそうだ。「最高の解像度」という言葉が面白い。例えば将来VRの発展が極まって、リアル以上の情報を送受信できるようになったとしても、分かり合えないまま変わらない可能性が高いのではないか、という冷静な予測になっていると、こじつけたくなる。あなたが「青」なのなら、わたしは青以外の何色かなのだろう。隣の芝は青く見えると言うときの青に近いのかもしれない。分かり合えないけれども、分かり合えないからこそ、分かりあいたくなる。でもやっぱり分かり合えやしない、という運動が繰り返される様子を引いて見たとき、それが恋愛なら、運命の赤い糸と呼ばれる。

 

④tenk(e)i/パソコン音楽クラブ

天啓。もっと若いときは何かしら面白いと思える発想がわいてきていて、天啓と呼んでもいいものだったかもしれない。今はその数は減ってきているようだ。魂の方向へ自然とのめり込むことも減って、パンの方向のことばかり追い求めるようになってきた。自分が何をしたいのか、何が好きかといったことを、自分で形作って、自分で図ったタイミングでそれを確定させる作業を、各所で行っている気がする。そういう営みは必要なのだけど、確定した範囲が今後顧みられることがないと、柔軟さが減っていってしまう。「確定」と表現した、心理的な仕組みのあり方が間違っているのだろう。そこは「判断」であればよい。その時々の状況を前提にして判断しているのであって、いつでもどこでも有効な正解はない。「天啓」も、その時々の状況が、天啓を受けるにふさわしいからこそ、電撃的に下るものだ。その衝撃が強い場合、下った瞬間からしばらくは、永遠の真理だと信じてしまうかもしれないが、やはり状況が変われば天啓も輝きを失っていく。ままならない世で、何かぴたりとハマるような感覚を求めてしまうことはある。その感覚を得たいがために、偶然でしかない物事の布置を、星座のように繋いで意味づけをしてしまうのも、人間の性なのだろう。その気持ちよさ、または苦しみや怒りに浸ってしまっている様は、広い意味で、過去に囚われているのだと言ってよい。それならといって、未来を掴みにいこうとしたとして、当然良い場合も悪い場合も、良くも悪くもない場合もあり、そこは誰にも分からない。しかも、過去が永遠の冷たい雨だというのなら、探し追いかけた未来もいずれ雨に変わってしまう。よりよい未来のために今考え、行動することも、未来から振り返れば誤りや無駄かもしれない。そんな不安と絶望の中であっても、よりよい未来に向かって活動しようとするのなら、その意志自体が周囲を照らす光になる。自分自身の未来を照らすとは限らないが、自分以外のすべての世界に光りを放つのだ。

 

⑤K2 Central/Squarepusher

UltravisitorのIambic 9 Poetryを思い出した。Ultravisitorはリリースが2004年らしい…。なぜIambic 9 Poetryを連想するのか、よくわからない。生音と電子音が静かに緊張感を保ちながらドラマチックに展開していくところが似ているのかもしれない。繰り返し聞いていて、Iambic 9 Poetry以来の傑作、という認識が出来上がってきている。4月のアルバムが楽しみだ。

 

⑤言伝/Bialystocks

手段としての言伝は、今はもう使われない。掲示板やSNSではなく、誰かにメッセージを覚えておいてもらって、その人がメッセージを伝えたい相手といつか出会ったときにメッセージを伝えてもらう、というのが言伝だと思うが、口頭でメッセージを記憶してもらっても、メッセージは忘れられてしまうかもしれない。(書き残すと言伝というより、手紙になってしまう。)そもそも宛先の人に出会わないかもしれない。メッセージがいつどのように伝わったかを知ることができない。メッセージの伝え方によっては、印象が変わって伝わるかもしれないし、メッセージをわざと伝えなかったり、全く違う内容を伝えたりされるかもしれない。言伝はかなり不確実な方法だが、それでも昔は、言伝に頼らないといけない物理的な状況があったから使わざるを得なかった。では現代において「言伝」を使うのはどういう時か。「言伝」を使わざるを得ないと判断できるほど、宛先との隔絶が大きいが、メッセージは伝えなければならない状況において使われる。『異国日記』で朝の後見人となった槙生の話し方は、いつもどこか言伝めいている。今相対している人に向かってではなく、どこか遠くにいる人が、今ここに来たときのために、メッセージを残しているかのようだ。これは、槙生が何か特別なことをしているのではないと思う。槙生が、伝えたい言葉の宛先を、今ここにいるのではない、いつかどこかの朝に設定している、というわけでもない。そもそも言葉の本質が「言伝」的で、言葉のプロである小説家の槙生が用いる言葉に混じり気がないから、「言伝」として機能する。それだけのことだ。

私は常々、人間1人1人は、それぞれ別の山の頂上にいるようなもので、はるか彼方に、同じように頂上で孤立する人がいる気配がするのだと思っている。あるいは、中島みゆきの『二雙の舟』という曲のように、私たちは一つ一つの舟であり、いつかどこかで誰かが舟を動かした気配を水面に感じながら、1人漕ぎゆくもので、時折複数の舟で並走することはあるものの、舟に2人乗ることはなく、1人一つずつの舟で進み続ける他ない、そういうものだとイメージしている。『異国日記』では、砂漠を1人さまよい、自分だけの水辺を見つけて乾きを潤すイメージが表れる。親子、親戚と言えども、誰かと同じ砂漠を一緒に歩くことはなく、一人ひとりに充てがわれた砂漠で、自分だけのための水辺を探しては一息をつき、ときに喜び悲しむことも、自分一人で味わわねばならないという厳しさを表しているようだ。一人ひとりが砂漠の国をゆく放浪者なら、異国にいる個人の間には、無限遠の距離がある。今ここにある身体ではなく、その遥か彼方にいる、一人だけの砂漠を行くものに対して話をしようとするのなら、自分の国から意思を送り出し、身体を介して言葉を伝えなければならない。相手の身体の向こう側の国に意思がいつどのように届くかは、送り出す側には分からない。送り出した後はもう、何もできることはない。また自分だけの砂漠を行く旅を続けるだけだ。

このような行為をなぜするのか。話したい、と思ったからである。なぜ話したいという思いをもつのか。決して誰も入ることも見ることもできない砂漠を行く者同士であることを確認するためかもしれない。この宇宙で本当に一人きりなのなら、孤独とは呼べない。側に人がいて、なお一人であるときに孤独という言葉を使うのだ。

 

わたしは今目を覚ました あなたと今話したい

わたしは今目を覚ましたい あなたと今話したい

 

という歌詞がある。繰り返し聞いているうちに、私には前者が槙生、後者が朝のように聞こえるようになってきた。双方が相手の国へ言伝をし合うのなら、きっとお互いの、かけがえのない孤独を照らし合う光になることだろう。

 

⑥月の裏で会いましょう/Original Love

結晶verを聞いている。

「青く光る月の裏側」で会いましょうという歌詞は、気取りすぎ、カッコつけすぎだけれども、カッコいい音楽と一緒になると、違和感がなくなる。音楽がカッコよければ、歌詞はいくらでもカッコつけていいのかもしれない。最近やり玉に挙がる冷笑VS熱血界隈は、やはり冷笑が大勢を占めていて、そのカウンターパートとして仮の熱血を置いて相対化しているだけだが、この曲は涼やかでいて、本物の熱血、本物のカッコつけを感じる。MiLKにハマってしまうのは、「カッコいい」からではなく、全力で「カッコつけ」ているからかもしれない。旧ジャニーズ事務所の一部の方々は、着の身着のままで「カッコいい」とされることに胡座をかいている印象がある。既にカッコいいとされてしまっているものだから、殊更カッコつけると、逆にダサくなる、冷笑されてしまう、という恐れの中にある。でもある程度の冷笑を覚悟してカッコつけ切るところに、熱が生まれる。

個人的には、カッコつけるということが全くできない。言い換えると、熱血になれない。カッコつけるということを分解すると、あるスタイルにしっかりと思い定めて、そこから簡単にブレない、ということなのかと考える。思い定めるには、無数にある選択肢から、特定の要素やプランを選び取り、他は捨ててしまって省みない、というプロセスを必要とする。そして、ブレないためには、周囲からの冷笑に動じずにメンタルを一定に保つ精神力を必要とする。大きくこの2つがどっちもできていないから、カッコつけられないのだろう。無自覚にそうなっているとか、若さや無知でクリアできてしまっても厚みがないので、ある程度経験を積んだ大人の方がよりカッコいい。そこにある熱は、赤というよりは、青を思い起こさせる。

最近聴いている音楽(2025秋)

①怪獣になりたい/削除

PVが好きすぎる。曲だけだと、かなり思い詰めた内容なのに、いい具合に力の抜けたミクさんと怪獣さんたちにヌルヌル動き回られると、曲自体もそんなに肩肘張らずに聴いていいのかな、という気持ちになる。

注目しているのは「怪獣」というワードだ。2025年の音楽ファンなら、サカナクションの「怪獣」を連想しない人はいない。もう2025年は「怪獣」の年ということにすればいいと思う。

「怪獣」とは何だろうか。サカナクションの「怪獣」は、アニメ「チ。」のために書き下ろされた楽曲だが、その昔宗教観的にタブー視されていた地動説を研究し、その内容を後世へと決死の思いで残そうとする人々の熱意と執念を描いた作品だと聞いている(視てない)。そのような人々を指して、「怪獣」という表現を発明した山口一郎の天才的なワードセンスが、人気を博した理由のひとつになっている。「怪獣」という言葉一つで、今現在の日本を表現し得るのではないかとさえ思う。誰もが感じている今の日本の雰囲気に、「怪獣」という名付がされた。そのように考えている。

人間は「怪獣」になれる。怪獣は強い。小手先のテクニックで整理された環境などはすべてぶち壊す。怪獣は空気を読まない。その場に流れている雰囲気やノリを突然に吹き飛ばす。つまり怪獣は過去と未来を無効化し、今、ここだけの世界を周囲に押し付ける存在だと言える。そんな怪獣に、私たちはなれるのだ。もちろん、怪獣としての私たちは、物理的にものを破壊するのではない。人間関係の内側に流れていると思われている力の押し引き、現実には存在しないがあたかも存在しているかのように感じられるバーチャルな力、つまり仮想的な力の流通する市場のごときものを破壊するのだ。なぜ市場という言葉を使うか。それは、経済が個人の内面まで食い込み、人格を構成する一部にすらなっており、人間関係において特に、個人の経済化が行われていると考えるためだ。趣味、特技、推し、履修したコンテンツのラインナップ、コミュニケーション力、技術力、そういった情報や形のないものを、市場価値に変換できるという認識を持っている人が多い。これは物質としては特殊な紙に過ぎない一万円札に、一万円の価値があると約束されているから一万円の価値がある、ということと同じだ。

社会と、主に日系日本人が長い時間をかけて培ってきた無数の約束事の集積が、市場化された人間関係の前提となっている。しかし社会のうち、日系日本人が占める割合が少しずつ小さくなるのに伴い、約束事の密度も少しずつ低くなっている。個人としては、約束事の網の目から漏れているなと感じさせる出来事にちらほら遭遇することになる。そのような出来事に晒された個人は、約束事の密度に守られた状態から一時的に抜け出る。約束事をベースとして、隣人と連帯しない都会的な個人主義の生き方をする都会の多くの人にとって、この守られていない状態には面食らうもので、むき出しの無防備状態で世界に放り出された気分になる。イメージとしては、個別の山の頂上に私たち一人ひとりが立っているかのようで、はるか遠くに、誰かが自分と同じように孤立している気配がする。「怪獣になりたい」という曲が放つ孤独感は、このようなものだと感じている。

孤独に襲われる私たちが孤独に耐える方法のひとつが、怪獣になる、ということだ。私たちは、たくさんの約束事に守られて生きてきたが、限界を越えつつある社会においては、常に守りが働くとは限らないことを覚悟しなければならない。何か大いなるものたちに守られてきたことに感謝して別れ、孤独を自分事として引きつけ、正面から向き合って戦っていく決意を固める。誰かが作ってくれた約束への依存をやめ、世界に対してたった一人で立ち向かうはめになったとしても、生き抜いてやる、と誓ったとき、その人は、この社会、世界に対する怪獣となる。怪獣がそこにいるだけで、市場、街は過去と未来から断ち切られ、実体のなさを暴かれ、内側から破壊される。そして怪獣が死んでなお残る爪痕が、過去と未来に新しい繋がりを生み出すのだ。

 

②I Need You Back/藤井風

「Now is not the time to die, I must be alive」「死んでいる場合じゃない、生きねばならない」という軸が一曲に通っていて、体幹というのか、歌全体にバネのような強度があって、しなやかな獣と相対しているような印象を受ける。藤井風はいつものように個人的なことを歌っているのだが、この世界のどこででも、「死んでいる場合じゃない、生きねばならない」という警告が真に迫って響くだろう。人間とは常に、死んでいる場合ではない、生きねばならない生き物なのだから、自分を生かせていない人や、あまつさえ「殺している」ような人は、人間の原則から外れていることになる。

聴き始めた頃は、ノリのいい曲で好きだなくらいに思っていたが、PVにはすっかり感動してしまった。表面的には愛する女性とヨリを戻したいという内容なのかなと思わせつつ、本当は心の内側にあるパッションや芸術性を司る心性が、女性的な姿で表現されている。その女性は黒い衣装に身を包んでいるので、ブラックミューズとでも言えばいいだろう。自分の解釈では、冒頭に暗い部屋からストリートに押し出したのも、ブラックミューズであって、そもそも無気力状態になってしまったこと自体も、ブラックミューズの恩寵の一環であって、後々には感謝すべきなのだというメッセージを読み取っている。

 

③ATAMI/Number_i

神宮寺プロデュースとのことで、神宮寺君の好みが自分と合っていて良い。神宮寺君のボーカルワークも好きで、天下の事務所を辞めてやったアドレナリンでこめかみに青筋を立てるような力みが一切ないところに、彼のパーソナリティと才能を感じる。

どうも、5人時代のアルバム特典として、熱海へ小旅行した際の映像が収められているらしい。「青」「キタノブルー」からは、青春を偲ぶ気持ちを感じる。事務所と、同じ釜の飯を食った大切な仲間を捨て去ったことで、それまでの活動のかけがえのなさが輝き出すような、そんな気持ちでいるのかもしれない。この感じだけは、残された2人には出すことができないだろう。事務所の力でどれだけ高品質な楽曲をあてがわれようと、捨てて失ったNumber_iの覚悟に勝つことはできない。

 

④笑ったり転んだり/ハンバート ハンバート

いつの間にか夫婦になっていたと思ったら、1998年結成時から夫婦だった。

「日に日に世界が悪くなる」と歌いこむ気概に感服した。星野源もアイデアで2番ではものすごく暗い歌詞にしていたが、その系譜を引き継ぐようだ。「気の所為か、そうじゃない」という歌詞も絶妙で、「そうじゃない」を肯定と取れば気のせいになるし、否定と取れば気のせいではなく、本当にそうなのだ、ということになる。ハンバートの2人は、この辺りを詰められても、都合のいい方のニュアンスを伝えればいいだけだ。「野垂れ死ぬかもしれないね」も面白い。どれだけの人が、自分が野垂れ死ぬかもしれない、と思いながら生きているだろうか。みんな野垂れ死なないように立ち回って生きている。でも日本ではとくに、震災、水害、火事が多く、慣れ親しんだ土地を急に離れねばならず、見ず知らずの土地で生を終える可能性を常に考えていなければならない。そのような人生を強いられたとき、「野垂れ死に」という言葉を思い起こすかもしれない。その時、この歌のように、生活するために座ったり、散歩したりということの価値を改めて思い起こすことができるかどうか。私たち一般市民は、ハンバートハンバートに挑戦されている。朝ドラでは、大正昭和の過去の出来事を扱うといっても、それを見ている現在の私たちにだって、誰にも共有されないドラマがあり、悲しみと嬉しさを全うしなければならない、という課題がある。それらを人知れず様々な形でよい方向に導けるのか、それとも野垂れ死にと言われる他ないのか、と問われている。

 

⑤The Shadow Of Your Smile/Stacey Kent

ステイシー・ケントは今年57歳のアメリカのジャズ歌手。Breakfast on the Morning Tramで知った歌手だが、きれいめな歌声の中にスモーキーな味がしてよい。「いそしぎ」という映画の主題歌のカバーらしい。「いそしぎ」とは、英語でSandpiperで、要は磯鷸という鳥のことであるらしい。映画の題名だし、映画は50年以上前の作品であるし、よく分からないが、その曲は今も知っている人がいるようなヒット曲で、ステイシー・ケントはそのカバーをしたらしい。一聴して名曲だなと思ったが、要はジャズ・スタンダードとのことで、オリジナルではなかった。トニー・ベネット版とエラ・フィッツジェラルド版を聞いてみたら、ステイシー・ケントの方が少しテンポを速くしていることがわかった。歌い方も軽やかで、爽やかでクリーンな印象がある。すると不思議なことに、重々しく歌い込むよりも哀しみがすっとすきま風のように吹き込んでくる。歌詞もいい。春の海岸線で鳥の声などを聞いた主人公の心にさっと影が差す。今となってははっきりとは思い出せないが、笑顔の面影だけが残っている。それを確かめさえすれば、愛と喜びが今の自分の心に戻ってくる。

映画については、海辺の家に息子と住むシングルマザーで自然を愛する画家と、妻子ある牧師の不倫ものだそうで、画家の女性の方が鷸を助けるという。そうなるとこの曲の主人公は牧師の男性の方になる。しかし、ここではステイシー・ケントという女性が歌う。歌だけで聴けば、女性の述懐と捉えることは普通にできる。(涙が唇に流れる、という歌詞からは少し女性みを感じるが。)映画のあらすじを知っている人からすると、少し複雑な味わいになる。自分はストレートに、女性が過去に恋した男性を想う曲のように聴いてしまう。もしかすると、過去の恋愛の思い出というのは、男性にとってはスローに思い耽るもの、女性にとってはふとした瞬間にさっと過ぎ去るものなのかもしれない。

 

⑥Forever Young/藤井風

2025年秋といえば藤井風のPrema。1シーズンに同じアーティストの楽曲を2曲入れない、というマイルールを破って選出。Premaは全曲名曲で、全部繰り返し聴いたが、単曲でリピートが多かったのはI Need You BackとForever Youngだった。

Forever YoungはPremaを締めくくる曲で、一緒に歌いたくてしょうがなくなる。パーティーの最後、名残を惜しみながら、最後まで楽しみ切ろうと力を振り絞るような爽やかさがある。韻の踏み方とか、いったいどこで習ったのか。聞き馴染みのない感じだと思ったら、2000年代アメリカンポップスタイルらしい。やっぱり英語のニュアンスが分からないから、日本語の曲の歌詞の独特の雰囲気と同じものが、英語歌詞の曲にもあるのか、全部は分からないけれど、和訳を読んだり、英語歌詞を読み込んだりしていると、いつもの優しさが垣間見えてくる。メッセージはシンプルに、いつまでも若々しい感性をもって生きていこう、ということなのだが、藤井風に言わせると、こうもエモくなるか、と思う。多分何か、切実で、デリケートな、個々人の柔らかい部分に触れるだけの侵食力というのか、誰もが持っているそこはかとない哀しみに訴えかける力を発しているから、エモく感じるのだろう。

何で39歳と60歳を区切りに置いているのかな。英語のゴロが良かっただけなのかもしれない。だけど多分ゴロだけではなく、実際のところそのくらいの年齢に、私たちは根の深い危機を迎えるのだと思う。藤井風自身はまだ28歳で、39歳のラインですら、まだ10年もあるのだが、そういう精神の危機のラインを、10年も前から把握していれば、いくらでも対抗策を打てるだろうし、そもそも、このForever Youngこそが、対抗策そのものだ。ゴリゴリのYoungな癖に、すでにYoungでなくなったときに陥る失敗に先回りして、Forever Youngという呪文を既に構築してあるのだ。ある意味、賢者は若くして失敗することがなく、時間を無駄にするところが少ないので、よい一日を送り続けられないような失敗をしてしまう人よりも、時間に余裕がある。その時間で鍛錬したり、創作をしたりするだろうが、その中でもきっと有り余る富として時間を持て余す時もあるだろう。賢者が時間を持て余す時、そこに美しい影が生じるような気がして、既にForever Youngと、Forever Youngに到達した藤井風からは、そのような隠微な美しさを感じる。それは人間として生まれた私たちが持ちうる至上の贅沢であると思う。つまり、私たちは人間として素晴らしい幸運の下に生まれ、その幸運をよく理解し、よく生き、よく働きつつも、時に溢れてしまう余剰の時間に、さらなる将来に思い馳せ、どのように生きるかを予め決定しておいてしまうほどに、人間というのは、はち切れそうな可能性に満ちた存在であり、私たち個人個人の能力にはものすごい量の可能性が掛かっているのだが、それらにひたすらにトライしていくのに必要なエネルギーもまたものすごく多いのだろう。ただ、エネルギーのような経済的な観念が、個人の精神においてそのまま当てはまるとは思っていない。活発に柔軟に暮らすことは、今すぐ、突然に、何の脈絡なく始められるはずだ。

 

⑦スーパーに閉じ込められた僕ら/DE DE MOUSE、namitape

2025年のデデマウス氏はライブ、ボカロ、コラボ活動をしまくっていて、すごいバイタリティだなと思って見ていた。毎月のように新曲が上がるなかで、今回はnamitapeという素敵なボカロPを紹介してもらって感謝している。

「スーパーに閉じ込められた僕ら」というタイトルだけで心動かされる。私たちって要するに、スーパーに閉じ込められているのか、と自然に納得できてしまう。個人的には、①怪獣になりたいとの関連を感じる。閉塞と孤立の中でどのように振る舞うか、その戦略の違いが楽曲に表れている。一人ぼっちの「僕ら」は、「怪獣」のようにスーパーマーケット的世界に対峙し破壊しようとはしない。むしろ稼働し続けているエスカレーターに乗って、スーパーの中をみて回り、中のものを好き勝手に漁りながら暮らし、ただ歌を歌っている。日本社会は、作るべきシステムはおおむね作り終わっていて、大抵のことでは止まらない。恐らくこの先も、長期間に渡って動き続けるだろう。「僕ら」一人程度が死んだとしても、システムの動作には何の影響もない、そういう風に思わざるを得ない。そしてそのような孤独な一人の集合が「僕ら」ということになる。「僕ら」と言っても、連帯しているわけではなく、個々に孤立している。ただ時折、気配は感じるので、「僕ら」なのだということは辛うじて分かる。

「LEVEL3999」とは、The Backroomsというアメリカのインターネット都市伝説を元に作られたフィクションが用意する空間のことだという。The Backroomsとは、Wikipediaによると、不気味に閑散としていて無機質な部屋の写真がまず投稿され、その投稿に対して、現実世界でゲームのすり抜けバグのような事象が起きることで陥る、果てしなく続き、一度迷い込むと二度と現実世界に戻れない空間を「The Backrooms」と言うのだ、というコメントが付いたことをきっかけとして、明確な作者がいないままに、多数の人が様々な設定を付け加えることで成立したフィクションであるらしい。主流の設定としては、Backroomsはゲームのような世界であり、レベルという階層で分かれている。現実世界(The Frontrooms)から外れ落ちた先がレベル0なので、レベル3999は4000番目の空間になる。

 

https://backrooms.fandom.com/ja/wiki/Level_3999

 

BACKROOMS WIKIによれば、レベル3999は「The True Ending(本当の終わり)」と題された、無限に広がるゲームセンターであるという。ここで分かるのは、主に作詞したのがnamitape氏なのかデデマウス氏なのかは分からないが、「スーパー」世界は、「ゲームセンター」世界と言い換え可能だということだ。The Backroomsは「ゲーム」世界だが、レベル3999はそのゲーム世界をメタ化したゲームセンター世界になっている。3999ものゲームレベルを通過した後に待っているのが、無限にゲームで遊べる世界だというのは、皮肉が利いているというのか、妙に納得感がある。ジョジョ5部の「終わりのないのが『終わり』」を思い出す。WIKIによると、窓を通り抜けることができれば、現実世界(The Frontrooms)のゲームセンターのそばに移動できるそうだ。原典のコメントでは、現実世界には戻れないと定義されていたはずなので、個人的にはそう簡単には戻れないような世界であるべきなんじゃないかと思う。(原典主義)

「僕ら」は、「スーパー」で今居るフロア=「LEVEL3999」=「ゲームセンター」に閉じ込められている。「僕ら」とは、いつの間にか現実世界からゲーム的な不具合によって脱落したゲームセンター的世界において、無限のゲームをプレイさせられている、ゲームプレイヤーである。今置かれている状況は、リアルからは乖離していて、どちらかと言えば悪い状況なのだが、抜けられるような構造がそもそも用意されていない、という認識がある。(WIKIでは用意されていることになっているが。)誰かが用意したゲームの中でできることは、可能とされている操作のみであり、特に、ゲームそのものに関わるような操作は行えない。これは、格差社会を抽象的に(具体的に?)表していると言えなくもない。下の者は、上の者が作った構造の中でしか生きられず、構造を変えることができない。構造はあくまで合法的に作られたものだが、構造そのものに関する議論に参加できないような構造になっている気がする。しかしこのような考えは、構造主義的な見方に傾倒し過ぎている、ともいえる。「僕ら」を抑圧する構造があるのは間違いないと思う。そしてその構造によって、精神までもを規定されかかっている現状を認めてなお、あえて抵抗しない、という戦略をとる理由がないように思える。肯定的に見るなら、構造を看取しさえすれば、自ずと構造からメタ的方向に離脱していく可能性はある。あと、歌を歌うという行動(namitape氏にとってみれば、歌を作るという行為)が、孤独な個人同士の間に横たわる無限の距離に振動を与え、構造にバグを生み、構造からの脱出や、脱構築のきっかけを掴む端緒になる可能性もある。スーパーマーケット=「超-市場」に閉じ込められている私たちが「市場」に挑戦するなら、怪獣のように市場そのものの破壊を目指すことができる一方で、行儀の悪いゲームプレイヤーのように、内側から静かにバグらせることもできるということだ。

 

まほろば/人間椅子

バンド名は少し聞いたことがあったが、曲は一度も聞いたことがなかった。3分以内の曲が飛び交う令和の音楽業界にぶち込まれる、約8分のサイケデリックロック。昔からそうなのか、坊主のコスチュームに顔面白塗りのスタイル。分断、差別、貧困などなどが日本人全員の足をぬらし始めた世の中で、理想郷「まほろば」をどっしりと歌い上げる文学的なセンスと演奏のスキル。長く音楽をやっている人たちだから出る厚み。「愛へ」という歌詞が「Ah Yeah」という合いの手になる素晴らしいギミックにも感心した。

まほろば」の「まほ」には漢字があり、「真秀と書く。

 

https://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E7%A7%80-635636

 

「真秀」には、

①よく整って十分なこと、完全なこと

②正面から向き合うこと

③正式であること

④直接であること

という意味があり、これに場を付けた「まほろば」とは、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」「楽園」「理想郷」という意味になる。密かに限界を越え、住みにくさが増している社会を真正面に置いて、この社会が少しでも理想郷に近づくように皆で努力しよう、と真っ直ぐに説いている。『まほろば』は、今の境遇が良い人も悪い人も、等しくまほろばを目指すべきだ、と主張しているところがすばらしいと思う。自分の身の回りだけで精いっぱいな人は、そんな中でも周囲を慮る心遣いができるようになった方がよく、色々と余裕のある人は、社会がより良くなるように考えて行動を起こしていく方がよい。どんな人も、どんな時でも、愛と夢のためにできることはあり続けるものの、それらに気が付ける時間は限られる。社会と名指されると見えなくなる人々の集合を拡大して一人ひとりを確認してみると、失いつつある自由を繋ぎ止めるのに必要な労力が大きくなって、愛と夢に向かおうとする時間は益々少なくなっている。しかし、愛と夢に向かおうとする意思に「まほろば」は内在するものだと思うので、自分(たち)だけ助かればいいという態度を発揮するときに陥る、未来永劫整うことのない「アンチまほろば」とでも言うべき何かに心を乱されるよりは、「まほろば」を心に宿し、世界やら日本やらが終わりそうということは一旦棚上げしてしまって、まず自分から、まほろばに向かおうとしなければならない。

 

最近聴いている音楽(2025夏)

もう冬に突入しようという頃に、夏の歌をまとめている。

 

①諸行は無常/久保田利伸

自分が若い頃から歌が上手いおじさんだったけど、今も全く変わらず歌が上手いおじさんなことに驚く。なんと60歳になるそうで、とんでもないレジェンドアーティストだと思う。(MAJで表彰してほしい。)

去年はギリギリダンスが流行るなど、「限界」というキーワードが薄っすらと社会に蔓延する年だったと認識している。この曲を聴くと、私が感じたようなことを、久保田利伸も感じていたのだなと思える。歌はまず、「こわれないで」と始まる。何か社会の表舞台を端から見ている人からのアドバイス、願いのように聞こえる。若い個人なら、努力すれば限界を超えられるかもしれないが、少し老いてきた日本社会にとって「限界」とは、超えるべきハードルではなく、そこまで頑張ると壊れてしまう、という本当の限界になってきている。しかしそのような社会で生きざるを得ない私たちは(そして日本以外の国へ移住しようと決断しない私たちは)、思うようにならないことを嘆くよりも、今一度呼吸を整え、落ち着いて周囲を見渡す時間をもち、今の私たちにできる限界を見据えながらも、その上で何かできないかと、改めて探求するような生き方を選び取れるようにならなければならない。それは、突きつけられた限界に対する敗北ではなく、柔軟に進路を変更しながら前に進もうとする強かさといえる。

これがテレビ東京ワールドビジネスサテライトのEDなのが最高にクールだ。サービス業でも製造業でも、これまで通りのやり方で、これまで通りの水準を維持することはできない、という諦めがまず必要だという話に、容易に展開できる。そもそもこの世は無常、変わり続ける宿命にあり、「限界」が感じられるのなら、それは何か確固とした変わらないものを保持し続けられる、という誤りを、誤りと認識できていない状態なのではないか。そのような警句を、気持ちのいい音に乗せて社会に届けてくれている。

 

②未確認領域/Number_i

「センスと才能だけじゃ3年持たず転落」とINZMで歌っていたが、Number_iは2年目になった。努力を続ける彼らのぶっ飛び方がまだまだ清々しい。旧ジャニーズ事務所のアーティストよりも目立っていて、受け入れられているように見える。でも、自身の力だけで飛べているとは勘違いしないでほしい。旧ジャニーズ事務所という巨大な力の反作用を推進力としている部分も大きいと思うからだ。3年目に入り、ボーナスステージのような勢いが弱まっていく中で、どうやって活躍し続けていくのか、まだまだ注目していたい。

「ぶっ飛ぶ上・空・ゾーン」で音がブチ切れる部分は度肝を抜かされたが、飛び道具的なギミックで、無理やり盛ってる表現かな、という感じはする。カッコいいとは思うものの、音楽的には行儀が悪い。(望むところかもしれないが。)

歌詞からはまたしても、別の道を行く現キンプリの2人へのメッセージを感じる。「離れた手をずっと追う」あたりは、キンプリを前に置いてるようだけど、「上空から叫んだっておまえは上の空」の部分は、ゴリゴリの上から目線かましてるな、と臆病な自分からしたらヒヤヒヤするような暴力的な表現に感じる。「レイジアゲインスト」という言葉が出てくるが、目的語がないから、何に対する怒りなのかが分からない。どストレートに、旧ジャニーズ事務所に対する怒りなのだとすれば、もうそんな事務所は放っておいて、好き勝手にやっていればいいと思う。反抗していた親が老いて張り合いがなくなったときに、反抗するだけの力を出し得たのはむしろ親がいたおかげだったとか、そういう落ち着き方はして欲しくない。依存心の裏返しでした、というオチは勘弁して欲しい。まあ皆んな子どもではないから、狙った演出なのかもしれない。しかしそれも賞味期限が迫っていると思う。3年目のNumber_iも楽しみにしている。

 

 

③breakfast/Mrs.Green Apple

「何気ない言葉に傷つくくせに あなたこそ正しく言葉を使えずにいる」という大森先生からのお叱りに、全国民が震え上がったと思う。もうXのトレンドは見るに堪えない。誰かの言葉尻をとらえて、感情的なメッセージを拡散する、正しく言葉を使えない人々の群れが、毎日対立と分断を作り続けている。

「愛想ばっかで芯を食った人がただ減る 簡単なことでも考えられずいつだってスルー」という大森先生の小言にさらされた全国民は耳に激痛が走ったと思う。その場のノリで当たり障りのないコミュニケーションをする者は、他人の気持ちを気遣うよりも、和を乱していると周囲から糾弾されないように自分を守ることを優先しているだけだし、何か決断をしなければいけない物事を正面から受け止めずに流して、先送りにしてしまうことも多い。私たちは何も考えていないわけではないと思うけれども、場当たり的な損得勘定に終始していることが多く、考えているというより、感じているだけなのかもしれない。不快感が、「不快の元は排除しなければならない」という結論に直結している人が多い。もうこれは、赤ちゃんが泣いているのと変わらない。

「あなただけの世界が だけの世界が今日も広がっていく」

「醒めない夢も 情けない現実も ただ景色になっていく」

本当に大森先生は凄まじい。この歌詞を聴いて、去年あたりにあった「限界」感は、一段と深刻化しているのだな、と理解できた。「限界」感に揺さぶりをかけられた人たちはどうなったかというと、一人ひとりが「私だけの世界」を築き始め、その中でだけ通用する観念を保守しだしたのだ。これは訪れた「限界」という危機に対する防衛反応、免疫のようなものだ。この傾向が過剰になれば、自己攻撃するようになる。今のところは外国人に矛先が向いているが、そのうち日本人同士で攻撃し合うようになるだろう。現状の分析に時間を割く余裕がなくなり、感情によって何を正とするか調整する時代が来ている。

「他の誰でもない 何でもない奇跡をあなたはもっている」

という歌詞は、情けない私たちもかけがえのない特別な存在なんだと、ホッとさせられるようでいて、実は一番研ぎ澄まされた主張になっている。「あなた」と呼びかけられているのは、当然のことだが、この世に生きるすべての人である。それなのに、「私だけの世界」に居る人は、「私」だけがかけがえのない存在だと無意識に思ってしまいやすい。大森先生からのお言葉にホッコリすることと、感情的で排外的な主張を繰り広げることが両立してしまう。自分を特別な存在だと思う、これはしょうがないし、実際特別である。それなのに、他人も自分のことを特別に思っているし、実際特別である、ということは認識できないし、認める努力をしたくもない人が増えているのではないか。彼もまた特別な存在なのだと分からない、ヴェルタースオリジナル状態である。自分は奇跡をもっていると信じたいのなら、他人も奇跡をもっているということもセットで飲み込めなければ、この世の様々な課題に口出しする権利はないよ、と大森先生は申していると、私はそう考えている。

 

④カルチャー/キタニタツヤ

大森先生は厳しいが優しかった。しかしキタニは辛辣だ。噛んで含めるような、分かりやすいストレートな歌詞が、なぜかマターリとかユクーリといった大分古臭いネット用語と、ゆっくり茶番劇的な音声と共にお届けされていて、面白すぎる。しかもやけにオシャレ。なんとなく、ここしばらくのネットの状況は、全国民が2ちゃんねるに叩き込まれたようなものなのかな、と思い始めている。自分は2ちゃんねるを利用したことはないけれど⋯。

知性の高い者から低い者への啓蒙、というスノッブ感が強いが、キタニは東大卒のガチ知性強者なので、スノッブがダサく見えない。でもハンナおばちゃんこと、ハンナ・アーレントの『人間の条件』、どんなもんかと書店で見てみたけど、めちゃくちゃ分厚いし、内容はいわゆる哲学語で書かれていて、何もわかる気がしなかった。絶対キタニも解説本は読んでいても原本は読んでないだろ、と思った。『イェルサレムアイヒマン』の「悪の凡庸さ」の方を言っているのかもしれないが。

 

https://mindmeister.jp/posts/Arendt

 

ハンナおばちゃんは考えることの重要さを説いていて、ホロコーストのような巨悪は、考えない人たちによって下支えされたと分析しているという。考えないことの危険を挙げる所は、大森先生と同じだが、Breakfastからカルチャーがリリースされるまでの間にあった参院選の有り様が、この楽曲に強く影響していることは間違いない。どちらかというと自分は何も考えていないタイプだから、どうしたら考えられるのかが、実はよくわかっていない。民主主義とか、大きいことは考えても意見をまとめるのは難しそうだから、身近なあれこれに対して考えているか、いないかを考えるのがいいだろうとは思っている。小池龍之介氏が「考えない練習」を著してから15年経ち、「考える練習」が必要な世の中になったのだろうか。いや、どうだろう、やっぱり小池龍之介が言っているのは、「感じたことをそのまま言葉や考えにしない」ということではないか。ならば私たちは、「考えない練習」と「考える練習」の両方が必要そうである。とりあえずは、何か頭に上っている考えらしきことは、ただ感じているだけのことではないか、と警戒することから始めるしかないだろう。「どうせ逃げれぬ現実を楽しく見つめれるように」なるにはどうしたらいいか、考えられるようにならないといけない。

 

⑤健忘者たち/cero

健忘者という単語が気に入った。breakfastやカルチャーで描かれた、無思考・弱思考者と似た問題意識があるように感じる。

エストラゴンとウラジミールは、『ゴドーを待ちながら』という劇の登場人物の名前だった。劇では、2人の他に、ポッツォとラッキーという人物が登場する。ポッツォはラッキーの首に紐をつないで連れて歩いていて、奴隷のように見える。ラッキーはポッツォからの命令通りに踊ってみせたりしていたが、「考えろ!」と命令されると、滔々と哲学的な(しかし意味不明な)話を喋りまくるのだそうだ。私たちは何も考えないままでいるわけにはいかない、と感じているはずだから、大森先生やキタニなどから「考えろ」などと言われて発奮して、考えようとするのだが、正しく考える営みをし始められるとは限らない。むしろ、正しくない考えを繰り広げ、状況をより悪化させてしまうかもしれない。個人的には、外からの動機づけでし始める思考は、その人や周囲にとって意味あるものになりにくいから、思考は内からの動機づけで始めなければならないという警告だと解釈する。森博嗣のエッセイを何冊か読んだので少し言語化できるのだが、何が自分にとって望ましいことなのか、という自己理解が、あらゆる思考の前に明確になっていなければならない。自己理解とは、言い換えれば、思想と呼ばれうるもので、思想なき思考は、土台のない建築物のようなものだ。思想がない思考は、時間(タイミング)と場所(スタンス)によって相対的に決まるものでしかなくなるが、自分はどうしたいのか、という核から出発する思考は、自分という存在に立脚している分、時間や場所に左右されにくい。ceroの言う「健忘者」とは、私の解釈では、自分自身の思想や理想を忘れてしまっている人たちの総称である。

 

⑥魔法/KOTORI

ロックバンドの音楽をあまり好きにならない方だが、この曲は妙に良かった。メロディーとか、曲の流れが自然な感じがして、完成度が高いからなのだろうなと思った。すこし抑制されたギターと歌い方も良い。切実に感じる。バンド名はくるりQURULI)から来ていそう。

 

⑦Hachikō/藤井風

これから全曲英語詞のアルバムが出るというところで、先行配信されたこの曲の突拍子のなさに、心底感服した。世界に向けて発信する最初の曲を、渋谷のハチ公にするという発想が奇抜だ。それに英語詞って言ってたのに、日本語入ってるじゃん、と突っ込みたくもなった。(アルバム中で日本語が入っていたのはこの曲だけだったが。)そして、曲調に今までの藤井風にはなかった新しさがあり、アーティストとしてステージが変わったな、という印象を強く受けた。渋谷のスクランブル交差点は海外の人にリアルに通じる観光スポットだろうし、日本出身アーティストの挨拶代わりとして、これ以上ないチョイスだ。ハチ公という民話自体は知られていないかもしれないが、リチャード・ギアのハリウッド映画を観た人は、欧米やアジアにそれなりにいるという。

「きらり」で、どこにいたの探してたよ連れてって、と歌っていたが、「Hachikō」と対になっているかのようだ。「きらり」は迎えに来た人と会い、どこかへ連れて行ってもらおうとしているが、「Hachikō」は迎えに来た飼い主が、ハチをどこかへ連れて行こうとしている。「きらり」と「Hachikō」は、同じテーマを、違う角度から見ているのだと思われる。藤井風は「何なんw」からずっと、ハイヤーセルフというもう一人の自分との関係を歌ってきた。「何なんw」では、ハイヤーセルフからの注意、警告に気付かずに失敗してしまう自分を描いていた。「きらり」では、ハイヤーセルフの存在を認識して、一緒に歩んでいこうとしているようだった。そして、「Hachikō」は自分がハイヤーセルフの側に立って、自分自身を導こうとしている。「Hachikō」では、ハチ公と飼い主の再会を、自分とハイヤーセルフの邂逅になぞらえているのかと思われるが、PVには、その邂逅を俯瞰して見ている別の存在がいる。白い服を着た飼い主の藤井風と、黒い服を着たハチ公の藤井風ともう一人、ハチ公のいる渋谷を(天津甘栗屋さんから)覗き見るグレーの藤井風だ。PVでは、2番サビ後の盛り上がりの部分で、水の張られた浴槽の中から起き上がるようにして現れる。飼い主がいる世界と、ハチ公がいる世界は別々に分かたれていたが、邂逅を果たした後は、急にその両者を俯瞰する存在が水気と共に現れてくるところが面白い。「水」はPVでは象徴的に扱われていると思う。飼い主のいる白の世界と、ハチ公のいる黒の世界は、曲の進みに合わせて徐々に交錯していく。曲の初めでは、白と黒どちらの世界からも、ドライな印象を受ける。黒の世界は砂漠化していて、分かりやすく具体的な乾燥を感じる。白の世界は具体的ではない、抽象的な乾燥を感じる。あまりに清浄すぎるというか、異物とは混じり合いようがない、という諦めを感じさせるような印象を受ける。そんなドライな2つの世界に水が入り込む。飼い主はどこからか飛んできた水風船が直撃してびちょびちょになり、ハチ公は天から降る雨に濡れそぼつ。水の中から第三の藤井風が現れてからは、飼い主はハチ公の世界に現れうるようになり、また、ハチ公は飼い主の世界に現れうるようになっていた。そして、飼い主の世界ともハチ公の世界とも違う、白黒がないまぜになった空間で、飼い主とハチ公は邂逅し、交歓し合う。そのセレモニーにはなぜか、渋谷の街を透視するように曖昧な視線を放っているグレーの風が立ち会っている。グレーの風が、飼い主とハチ公を引き合わせたのだろうか。私はそのような因果関係は適切ではないと考える。飼い主とハチ公とグレーの風は、ただ偶然、その場に居合わせただけなのだ。水をもたらす風と、乾燥した風が交錯する刹那、一瞬だけ、飼い主とハチ公の邂逅が幻視される。踏み込んで言えば、藤井風だけがスペシャルな現象を起こせるのではなく、ハチ公の物語を偶然知っている私たち一人ひとりの内においても、飼い主とハチ公の邂逅は起き得る。

ハチ公物語という寓話によって、私たちのあるべき姿が指し示されている。つまり、私たちは主人を待つ絶望的に退屈な犬であるが、その犬を迎えに行き喜ばしてやる主人もまた私たち自身である、ということだ。このことをよく分かっている人は、犬たる自分と主人たる自分を俯瞰し、適宜両者を引き合わすような呼び水を与えることができる。

大森先生のいう「あなただけの世界」とは、犬だけまたは主人だけの世界、または、犬と主人だけの世界と言い換えてもいいだろう。犬VS主人というジレンマのような課題そのものに拘って生きてしまうと、「あなただけの世界」を生きてしまう。犬、主人の外側に、第三の目線を持つ人は、犬VS主人という生命の課題を実質克服すると同時に、この世界に存在する無数の「私たちの世界」に開かれるようになる。キタニ先生のいう「考える」は、表現として少々雑で、実際のところ、上記のような「私たちの世界」を観ようとしてみよ、と言いたいのかもしれない。

ただまあ自分は、「私たちの世界」に身を置くことに耐えられない幼い人格同士がぶつかり合いながら生きてしまうのも微笑ましく流してもらえないかななどと、甘い考えで暮らしている。

 

⑧100万光年のやさしさが注がれる限り/INDOPEPSYCHICS、OSUMI、DEJJA

90年代の日本語ラップに出会ってしまった。シティポップのように、そのうち世界に発見されそう。OSUMIという歌手はもう亡くなってしまったそうだが、ずっと聴いていても飽きない。最近のラップといえば、仮想敵と戦うような内容ばかりだが、この曲のラップには明確な敵や、戦いが存在しないように聴こえる。朴訥とした声で、いわゆる堅いラップが緩やかに風のように流れていき、雨のようなコーラスが寂寥感を加えている。

俺を笑ったやつを見返すとか、邪魔したやつを吹き飛ばすとか、そういうのだけがラップではないことは、今年に入ってSUSHI BOYSから少し学んだところだった。絶対に飛び越えられない、コミュニケーションの此岸と彼岸を見据えながらも、コミュニケーションしようとする意志をシグナルとして発信する。正しくシグナルを受け取れることは絶対にないけれども、アーティストとリスナーが通じ合っていると信じ合おうとする関係を、ラップによって作っている、そんな感じがする。

おせっかいな狼とわからないバカ - もののけ姫雑感

「お前にサンが救えるか」

「わからぬ。だが共に生きることはできる」

 

「サンはオレが救う」などと申したなら、瞬時にモロの君に頭を噛み砕かれていたことだろう。答えのない問いに対しては、答えを出しきってしまうことが最大の不義理になる。どうにもならないことを、どうにもならないまま、苦しみながら呑み込み、腹に納めることができるのが、人間の善性の重要な部分で、そのように納めるには、度量が必要になる。

 

最後に「バカには勝てん」とジコ坊は言う。アシタカとサンを指して「バカ」と形容しているのだとして、どのような「バカ」なのか。それは、大きく困難な問いを解体し、現実的に着手可能な小さな問いに切り分けるという、もののけ姫よりもずっと先の時代に人間が豊かな文明を手にできた程に重要な力を、目の前の事物に対して振るわないで、非効率に生きることを「バカ」と呼んでいる。ジコ坊は、帝に命じられたから、仕事として首の運搬を請け負っている。神殺しを畏れながらも、仕事の完遂を優先させるのは、帝の御用を達成した後に得る報酬や、地位の向上の方が、自分の人生に置いて重要だ、という価値判断を働かせられる、「賢い」思考の持ち主だからだろう。ジコ坊は、神が何のためにいるのかとか、自然と人の営みを共存させるにはどうすればいいか、あるいは、自然を淘汰するにはどうすればいいか、といった大きな問題には取り合わない。あくまで自分のために現実的な利益を追い求めようとしていて、そのような自分のあり方を楽しんでもいる。現代でも、地球環境を守ろうと叫んで、声を結集させて民主主義のレールに乗っけようとする人たちがいる。民主主義社会においては、それらの活動が実を結ぶ可能性はゼロではない。しかし、もののけ姫の世界に民主主義が根付いていないのは明らかで、自然を守ろうとする行為が世界に影響を与える可能性はゼロ、と断言してしまっていいだろう。「共に生きる」ことも同じで、基本的に無駄なことなのだ。しかし人は、無駄かどうかという尺度とは別の尺度に基づいて、情熱を傾けられる生き物でもあり、そのような人は時に「バカ」と呼ばれる。

 

生と死を周囲にもたらす超越存在、シシガミ(昼の姿)/デイダラボッチ(夜の姿)を見て、連想したものが2つあった。1つは、進撃の巨人の生命体で、2つ目はエルデンリングのエルデの獣だ。デイダラボッチが首に向かって体を伸ばして繋げようとする様は、エレンがガビに狙撃されてちぎれた首と胴体を繋げようとするシーンを思い起こさせる。エルデンリングのラスボスは、デイダラボッチに近い見た目をしている。フロムの宮崎プロデューサーってもしかしてもののけ姫に影響を受けているのかな?(名前も駿監督と一緒だし。)火と鍛治のモチーフはソウルシリーズから連綿と続いている。動物類にも共通点がある。祖霊という大きな鹿はシシガミ様を彷彿とさせるし、亜人という二足歩行で襲ってくる猿は猩々に近しいし、白い狼に乗って弓を射掛けるしろがね人からは、狼に乗るサンと弓を使うアシタカのイメージの両方を感じる。主人公とメリナの付かず離れずな関係性と霊馬トレントなんかを並べてみると、アシタカ、サン、ヤックルのそれと似通って見えてくる。さらに妄想を働かせれば、マリカ様とラダゴンなどは、共に生きることに失敗した世界線の2人なのだろうか。いやむしろ、「共に生きない」ことが、エルデンリング世界における善性の発露と呼べるのかもしれない。

 

実際のところ、もののけ姫のラストシーン以降、アシタカとサンは、「共に生きること」を全うできたのだろうか。噂によると、サンは子どものとき、どこかの村で神への人身御供として供されたのだという。人間社会から放擲されて育った人を、人間社会に戻して暮らしていけるように手助けするのではなく、「共に生きる」と宣言したアシタカはやはり正しい。アシタカもアウトロー寄りで、コミュニティとは付かず離れずやっていくのだろうから、アシタカは、タタラ場のようなコミュニティとサンの中間くらいの立ち位置にあたる存在と言える。今はお金を介したつながりか、SNSによる関係の即応性を相互に保証しあうようなつながりばかりになってしまい、「共生」とはどのようなあり方なのか、想像することが難しい。関係を構築しない関係といったら良いのだろうか。互いを異質であると認めて、互いの自由を出来うる限り優先し、同質化を避けるような関係だと考える。このように、アシタカはサンやタタラ場の人々と関わり続けていく。人だけではなく、自然や神(や、ひいては帝)ともこのように関わる。異質な存在に敬意を払いつつ、自分事の領域を侵されることにも異を唱える生き方は、摩擦を生み、困難さに直面し続ける。ジコ坊に言わせれば、「バカ」の所業ということになるだろう。しかしそれは、自・他の自由と、自然環境をも尊重しようとする、ハイレベルなコミュニティ(タタラ場は自然、サン、帝のおわす朝廷と共生できない原始的なコミュニティ)を作り出す道に開かれているのではないか。

 

「お前にサンが救えるか」と言ってしまったモロの君は、実は、人間であるサンが人間らしく生きられるようになって欲しい、というおせっかいな心情を吐露してしまっていた。でもサンは山犬の一族として生きることを望んでいるし、今さら人間社会に戻そうとすれば、中途半端な社会の恩恵を受ける代わりに、自由をねじ曲げられたという深い傷を受けるだけであることは目に見えており、どうにもしようがない。それに対して、「わからぬ」と言い切るバカ(アシタカ)は、モロの君の秘密に触れることなく、理想論を叩きつける。この、「わからない」を、「わからない」ままキープして飲み込んでしまうことに後ろ暗さを持たずに、さらに自由を追求していこうとするあり方に、アシタカの英雄的な善性を見て取ることができる。

最近聴いている音楽(2025春)・後編

⑤ユメミ/r-906

冬頃のthe Holeが好きすぎてヘビロテしていたが、個人的に惜しくも(?)冬のプレイリストから外してしまっていた。the Hole以外はほとんど聞いていないので、ドラムンベース系のトラックメイカーだと思っていたら、ずいぶんスムースでエモい曲が来て驚いてしまった。途中にはフルートか何かの管楽器でソロパートがあって、繊細なミュージシャンなのだなと感じ入りつつまたヘビロテしているうちにMAJが始まり、まさかの『RYDEEN REBOOT』で初音ミクの調声を担当して、かつ映像に出演したとのポストがあり、さらに驚かされた。

 

blog.piapro.net

まずr-906がエポックメイキングな映像作品への参加を呼びかけられるほど、ボカロP界隈で大物だったのか、とか、原口沙輔じゃないのか、とも思ったが、よくよく調べたら、原口沙輔がボカロPになったのは、名義を原口沙輔に変えた頃で、それ以前はボカロPとして楽曲製作していたわけではないようだ。2019年からボカロPとして活動しているr-906の方が古参ではある。ただ古参というだけなら、ピノキオピーとか他にもいるのに、どうしてかなとは思った。

 

ユメミでは、ルウルという新しい音声ライブラリを使用していて、ソング音源の公開は4/4とある。

https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%83%AB

でもユメミのリリースも4/4になっていて、ライブラリ公開初日でこんな素敵な曲を作ってしまったのか?と思ったら、YouTubeのMVの概要欄に、ルウル公式デモソングとあり、さすがに1日で作れやしないよな、とほっとしつつも、企業からオファーを受けて、デモとして製作したとは思えない美しさのある楽曲になっていることに改めて感動した。デモなのに、誰もデモを超えられそうにない。声に合った音楽ジャンルを選んでいそうだし、歌詞も、声から呼び起こされるイメージから書き起こしていそうだ。そういう適応力や懐の深さ、技術力がMAJ抜擢の理由となったのかもしれない。

 

⑥Carry on/DÉ DÉ MOUSE、Pa's Lam System

デデマウス氏は最近、重音テトでボカロP活動をしていて、ボカコレに名乗りを上げているのを見たし、1回聞いたのだが、ちょっと何かが違う気がした。east end girlとかで、特徴的な声のサンプリング音を活用していて、ボーカロイドと親和性が高そうだけど、実はボカロ曲というのは、歌詞の比重が大きく、デデマウス氏は作詞が今ひとつなのかもしれない。ボカロPもリスナーも、中身の詰まったボカロ曲だね、という共通認識を持ちたがるのであって、実際には空っぽでも共通認識さえ成立すれば問題ないのに、空っぽであることを前提にして突きつけるようでは、ボカロという繊細な文化の内側には浸透していかないと思う。つまり、ボカロ曲に対する侮りを感じる。エッジの立ったかっこいい音を主役にして、歌詞をおざなりにしている印象がある。

 

80sユーロビートにフューチャーディスコにフューチャーバウンスを融合したエモーショナルで爽やかな今年の夏を彩るエバーグリーンカラーディスコ!

心も体も躍る最高のビートとメロディを皆様へ!

一方Carry Onはこのようなお品書きになっている。「Future BounceはMelbourne BounceとFuture Houseを融合して生まれたFuture Houseの派生ジャンル」とのことで、やっぱりこういう音の方がデデマウスらしいし、輝いているな!と思う。音楽用語を勉強してみよう。

 

メルボルンバウンスは、オーストラリアのメルボルンを起源とするストリートダンス「メルボルンシャッフル」から派生したEDMのサブジャンルです。キャッチーなグルーヴと、跳ねるようなベースラインが特徴です。

まずBounceがオーストラリアのEDMシーンに適用されたものがメルボルンバウンスで、Bounceは跳ねたリズムでグルーヴ感を出す方法で、ジャズでもよく使われる。

 

音楽におけるバウンスは、リズムを単調に刻むのではなく、跳ねるようなニュアンスを加えることで、より躍動感やグルーヴを生み出す演奏方法

 

https://edmnotami.com/future-house/

 

まず10年くらい前に、フューチャーハウスというジャンルが認識されて、その中でもBounceみを強調すると、フューチャーバウンスと呼ばれるようだ。そしてハウス、これは未だによく分かってない。色々ハウスと呼ばれている曲を聞いて蓄積しないと分からないものだろう。ハウスのWikiを読んだら、Jazztronikが日本のハウスの代表者の一人とあって、少し解像度が上がったと思う。あとリズムの主体が4つ打ち、ということも見聞きしたので、ハウスっぽさの輪郭は掴めたかもしれない。その上でCarry onを聴いたら、ハウスとは違うよな…という印象を持った。これは、ハウスの応用の応用みたいなことをしているから、斬新に聞こえるのであって、古式ゆかしき直球のハウスに新鮮味(エバーグリーン味)は出ないよな、と少し納得するところがあった。

 

⑦スーパー類/原口沙輔

「分けられるものなら分けてみろ」という挑発的な歌詞に、超高速ビートやらパリパリした音の群れをまとわせて解き放たれた極大ビームのような曲で、すべてが新しい情報の塊、という感じで、聴いていると頭がパンクしそうになる。⑥で、フューチャーバウンスやら、ハウスといった音楽ジャンルについて勉強したが、スーパー類の歌詞は、そういう単語に押し込められることを拒絶するような内容になっている。

型にとらわれない自由さそのものが結晶化したような音に、異様な集中力の賜物という称賛をまず贈るのだが、その一方で、DTМソフトで音楽の開始から終了までを俯瞰して見て、隅から隅までを掌握しコントロールする作者によって、音の聞こえを管理されているような息苦しさも感じる。リスナーに何らかの感情を喚起する余地があることを、エモいと言うのだとすれば、エモさの生じる「あそび」をあえて持たせず、音で埋め尽くすような作りに対しては、反(アンチ)エモという造語がふさわしい。近頃、「エモ」は記号的に消費されすぎているのかもしれず、流行に対する挑発的な態度として、「エモ」から離れる動きは有効なのかもしれない。「エモ」から離れる方法のひとつとして、あえて楽曲のなかに余分をなくし、硬質な音で埋め尽くすという、この曲のようなスタイルが立ち現れてくる。個人的にはこれは、大衆音楽ではなく、現代芸術の領域に片足を突っ込んだ、音の塊、音のモノリスだと感じる。

 

⑧ないてわめいてきらめいて/笹川真生

切実でいい。タイトルのゴロが良すぎる。自意識過剰でイタい感じが、隠キャ系青春全開で、柔らかい草の汁のシャワーを浴びるようだ。

先生に呼びかける詞からは、相対性理論の「地獄先生」を思い出さざるを得ない。「地獄先生」は、歌の主人公の女子高生が先生に恋してしまうシーンがはっきりと設定されていてイメージしやすいのだが、「ないてわめいてきらめいて」は一筋縄ではいかないところがある。先生、と呼びかけている主人公の生徒が好きなのは先生ではなく、「きみ」で、「きみ」以外のことは何も考えられないほど夢中になっている。ということは、生徒は先生に繰り返し問いかけをしていながらも、その実、先生自体には何の興味もないのだ。興味もないのに、問いかけだけは繰り返されるのが、不気味に感じる。

いや、もしかして、「きみ」と呼んでいるのは先生なのか?先生側の歌だとすると、何もかも逆転する。得体のしれない問いをぶつけてくる生徒はどこにでもいそうだが、そうやって、人生のボーナスゲームよろしく、答えようのない問いを無理に投げつけてくる生徒の頭を腑分けして当たり障りのない答えを捻出するでもなく、生徒と同じ迷いの次元であえて迷う振りをしながら、生徒のことをじっとりと考えている怪しい先生が立ち現れてくる。こういう解釈はしたくないが、面白い。

この解釈で続けると、先生からしてみれば、どうせ毎年、似たような悩みを持っている生徒が目の前に現れる。その様を繰り返し見るにつけ、悩むために悩んでいるように思えても仕方ないのかもしれない。ないてわめいているようでも、結局学生という枠組みの中で水遊びをしているようなもので、真の破滅からは遠ざけられていることを、内心、生徒も分かっている。さらにそのことをも、先生は把握している。ただし、悩みをアクセサリーのように付け替えているうちに、いつの間にかアクセサリーのどれかがその人の一部になり、外れなくなる。先生はそうやって歳を重ね、理由もなく襲ってくる悲しみと一体化してしまったことに後悔していない。なぜかというと、どの悲しみを選ぶかは全部自己責任であって、かつ、いずれかの悲しみを選ばざるを得ないように仕向けたのは自分自身だからだ。先生から見れば、生徒たちは同様の過程の只中にあり、生徒たち個々人が悲しみへと向かっていく過程をできる限り純粋なものとしようとするならば、先生は、生徒たちに余計な影響を与えないように細心の注意を払って言動をコントロールするだろう。

でもやっぱり、このような先生の態度はどこか間違っている気がする。祈りとは、面と向かって言わないから祈りなのであって、本当に祈りを伝えたいなら、どうしても、純粋さから遠ざかって現実的な関係をもってしまう必要があり、その結果先生は祈りをしくじってしまい、生徒は早々に後悔できてしまう、そんな失敗の世界で生きていくのも、悪くはないのではないか。

 

⑨真っ白/藤井風

この曲のおかげで、私たち日本人は、日本のシンガーソングライターとしての藤井風とさよならができる。わざわざ、さよならするための楽曲を作ってくれた。こんなに不思議で有り難いことはそうない。1stアルバムから、セットで洋楽カバーアルバムを付けていたし、日本語の歌に力を注ぐ一方で、西洋的な音楽に挑戦していきたいのだろうなという予感はしていた。そこに来てこの歌は、非常に丁寧なご挨拶のようなもので、そんなにかしこまらなくてもいいよ、と言いたくなる。そして去っていく風。いなくなって初めてわかる不在の跡。でも私たちは泣かずに、さわやかでクリーンな気持ちで送り出すことができるはず。そのような気持ちを持たせてくれたのは、風のおかげだ。私たちも私たちで、元気に暮らしていくよ!と気持ちよく言えたらいいけれど、灰色の世界の中で、本心からそう言えないでいる。なぜ灰色か。白黒つけてくれる何者かを皆で待っているからだ。誰もが価値判断を他人に押し付けてラクをしようとしている。あるいはもう、そのようにしかできないのかもしれない。そんな私たちの有り様を、間接的に窘めるような曲調にも聞こえてくる。

最近聴いている音楽(2025春)・前編

①Glitch/星野源

Glitchとは、システムの分野では機械やシステムの誤作動、不具合、故障を指し、音楽や映像制作の分野では、エフェクトやエディットの過程で生じる意図しない音や映像の欠陥や不調和を指すという。この曲では、Glitchは肯定的に表現されている。その時々に不具合、不調和だと思われた何かが、巡り巡って現代において、大きな意味をもった存在としてある、という経験を歌っているように見える。私はここに、かつて音楽業界が、内輪でJ-POPで盛り上がっていた、その傍らで、サブカルチャーとして国内の多くの人に顧みられることはなかったものの、作り込まれた音楽が世界で愛され、結局は日本でも受け入られていった、というストーリーを見て取る。「ほらみろ」と、やっぱり評価されるべきではなかったか、なぜ当時しっかりと評価しなかったのかと、はっきりと揶揄している。私の中では、その筆頭はYMOである。ヒントはある。一曲目の「創造」には「yellow magic」という単語が登場する。どう考えてもこれはYMOから来ている。どうして任天堂YMOが関係があるのだろう。

 

https://allabout.co.jp/gm/gc/205881/

YMOのファースト・アルバム『Yellow Magic Orchestra』(1978年)のA面1曲目に収録されている「Computer Game "Theme From The Circus"」は、文字通りビデオゲーム「サーカス」のBGMの「風船が割れる音」「葬式行進曲」などをシンセサイザーで再現したものです。

 

この記事を見て心が震えた。YMOのファーストアルバムは、ビデオゲームを題材にしていて、ビデオゲームのBGMをシンセサイザーで再現した作品を収録しているという。YMOは、別に依頼されてそうしたわけではないだろうし、星野源任天堂の方から、ゲーム音楽を自由に使って楽曲を作ってくれと依頼されて製作したという違いはある。でも結局、YMOと同じく、ゲーム音を音楽として再現するという作業を、何の因果か星野源もすることになり、星野源としても、YMOが過去にそうした、という歴史を念頭に置いて、「創造」を作ったのだろう。任天堂の中の人がYMOまで射程に入れて星野源に提案したのか、たまたま提案を受けた星野源YMOのことを覚えていたのかは分からない。また、ゲーム音を音楽にするという行為は同じだが、YMOにとっては手段であり、星野源にとっては目的だったというところにも差はある。まだPC関連の技術がエキゾチックに映っただろう80年頃、異世界から響くような音楽を作る、という目的意識を持って、YMOはファーストアルバムを製作したのではないかと想像する。

 

RYDEENYMO

MAJを観た。とにかく近年まれにみるほどにお金がかかっているなというのが第一印象だった。お金かかってる感が、賞(AWARD)の箔や説得力につながるのだろうか。風さんも、Grammyのようなイベントが日本にもあったらいいと思っていた、と何度か言っていたように、ゴージャス感は、グラミー賞を参考にしているのだろう。ただ、日本人的には、華美さよりも、トーンを暗くしてでも重厚さや濃密さを重視する傾向があると思うので、海外にアピールするため、あえて日本人が苦手とする明るさを全面に出していくスタイルで強行されているなと感じた。パフォーマンスしていたのは、宇多田ヒカル、YOASOBI、風といった、世界で実際に売れているアーティストだし、ちゃんみなやAwich(エーウィッチ)は、海外に届きそうなパワフルさが押されていたと見ている。

この賞にいなかったアーティストがやっぱり気になってくる。まず誰よりも米津玄師がいない。星野源もいない。あと、サザン、ミスチル、ドリカム、B'z、浜崎あゆみ、ゆず、スピッツスキマスイッチいきものがかりなどなど、90年代~00年代を牽引したJ-POPアーティストが軒並みいなかった。(YUKIはJ-POPとは一線を隔すどこかから召喚されている気がする。)米津玄師、星野源がいないのは、暗い影のあるスタイルが世界で売れないから、とかだったら悲しいが、本人が辞退した可能性大である。特に星野源細野晴臣やSTUTSと親交があるから、絶対招待されていたはずだ。そしてJ-POPアーティスト達がごっそりと除け者にされてしまったのは、国内市場が非常に縮小したことと、K-POPに海外市場で敗北したことを念頭に置くと、音楽業界が旧来のJ-POPに見切りを付けたのだ、と想像する。最近はガチャポップという言葉を耳にする。ポストJ-POPの括りとして、国内外で通用し始めているようだ。その大きな特徴は「雑多性」にあり、ひとつの傾向で括ることが難しく、日本発のポップミュージックであることだけが唯一の共通点になるような楽曲たちを、あえてひとまとめにした言い方だという。ある意味、サブカルチャーが互いに損なうことなく同居している状態、日本のサブカルチャーのバンドル化と言える。その中に、旧来からのメインカルチャーであったJ-POPは入れてもらえないらしい。

改めて、MAJに関係していた人を考えると、レジェンド細野晴臣、レジェンド矢沢永吉、そしてなぜかエンディングテーマに抜擢されたBOOM BOOM SATELLITES。海外で活動した実績のあるミュージシャンが取り上げられていた。なんかモヤモヤする。J-POPが国内で盛り上がっていた頃、日本の音楽業界は、世界に挑戦しようとするアーティストを後押ししていなかったのではないか?なんなら、後押ししないだけでなく、冷笑的な態度でアーティストを遠回しにスポイルしていなかったか?と妄想する。永ちゃんは嬉しそうにルビーを受け取っていて、それはそれで良さがあったが、閉幕の際に菅田将暉が言っていた通りなら、式典の途中でどこかへ消えたという細野晴臣の方が、冷静だと思う。

 

YMOというのは、今までメインストリームで活動をしていた気持ちはまったくないんですね。そのかわりに、音楽に対する情熱とか、愛情ですね。いかに面白い音楽を作っていくかに集中してやっていた。世界中の音楽の影響を受けて、それを自分たちなりに咀嚼して、日本独自のスタイルを考えていこうと。そうやって世界にお返しした」

 

細野晴臣のスピーチは核心を突いている。CEIPAは、サブカルチャーの集合をメインに据えようとしているが、細野晴臣の言う通り、世界に届く音楽を産み出しうるのは「音楽への情熱と愛情」であって、その多寡と、メイン/サブという分けは直接関係しない。メインカルチャーとして、業界団体が総力を挙げて売り出すからと言って、クリエイターが世界に届く音楽を産み出せるようになるわけではない。思うのだが、日本の音楽を海外市場で売ろうと意気込む時、国内(ウチ)と海外(ソト)を分ける前提を飲み込まねばならない気がして、腑に落ちない。これから、多くのクリエイターが、MAJを意識した製作を行うようになるだろう。その時のマインドのモデルケースは、「日本人である私が、海外で売れる曲を作る」、というものになるのではないか。

 

www.gqjapan.jp

「こういう風にしたら聴いてもらえるだろうとか、こういうものが流行っているとか、こういうジャンルの曲を作ろうとか、そういう気持ちで作った曲はないんです。それって、判断基準が自分の外側にあるじゃないですか。でも僕は自分の外側はどうでもいい。 “Gen-ness”は自分の中にある。そこには僕が出会った“音楽の理解者”たちもいる。だから、いろんなアーティストとコラボレーションをしたアルバムだけど、自分の外側の知らないところに行ったという感覚があんまりないんです。むしろ孤独の要素が強い。それがすごく面白いし、それでいいんだなって思えてますね」

 

星野源は、MAJが作り出しそうな未来から、既に脱却して、一段深い別の課題を追求している。海外アーティストとのコラボレーションを考える時に、国内と国外を意識することなく、単に、この楽曲にこの人が入ってくれたら面白いからという理由でオファーするという。日本人たる私が、外国人を招いているというウチとソトを分ける感覚がないのだ。星野源はさらに突き詰めていて、自分の内側と外側を意識して、あくまで内側に徹すると述べている。このレベルでは逆に、内外を意識して、あえて内側に集中することが、星野源にとっての面白さの源泉になっている。以上のような心構えが、細野晴臣の言う、「音楽への情熱と愛情」に通じるのだと考える。

細野晴臣星野源が揃って口にしている、「面白さ」とは何だろうか。恐らくそれはクリエイターの音楽への情熱と愛情によってのみ、クリエイターの個人的な楽しみとして発見される。その楽しみの残滓を、業界団体は、メイド・イン・ジャパンというラッピングをして海外に売るのだろう。ルビーを求めて、「音楽への情熱と愛情」を見失ってしまうことのないようにと願っている。

 

さて、そのMAJのオープニングショーでは、YMORYDEENをもとに、RYDEEN REBOOTと称した映像が披露された。やっぱりMIKIKO氏に任せていれば、意味不明な木遣りとかを晒さなくて済んだのに…と思い出してはいけない五輪開会式に意識が飛ぶくらい面白かった。RYDEENを改めて聞いてみると、コズミックオペラ的な曲調、ロマンチックな美しさ、サウンドの新しさがまったく色褪せずにそこにあり、感動してしまった。まずイントロがすごく短い。クリックなのかハイハットなのか分からない例の音から入って、いきなりメインメロディーで始まる。最近の楽曲はイントロが短くなったが、その45年も前に、既にそのようなアプローチが試されていた事に驚く。最近の曲と連続で聴いても、違和感なく聴くことができる。今回は星野源ドラムンベース的なGlitchと、Perfumeのシンセウェーブのネビュラロマンスで挟んでみた。中田ヤスタカはネビュラロマンスの前後篇で、明らかに1980年代のYMOを意識したニューシンセウェーブでアルバムをまとめようとしている。

 

③ネビュラロマンス/Perfume

全体的に抑制されていて、冷淡にも映るが、ネビュラロマンスという架空の歌劇では、そのような印象を与えることが、意図的に演出されている。ある個人が、架空の別の個人のようにふるまうということは、昔から行われた来たが、劇や映画のような非日常の空間に一時的に展開されていたところから、現代では、演じるということが個人の日常レベルにまで入り込んでいる。例えば、SNSアカウントごとに傾向の違うポストをしたり、マダミスで探偵や殺人者の役を演じたり、メタバースアバターの見た目に即したふるまいでコミュニケートしようとしたり、といったところだ。演じることが、特別な人間の技術ではない、という認識が広がっている気がする。何かの役を演じることは、人間の根源的な欲求に根ざしているのかもしれない。そもそもただ自然に過ごしているようでも、何かの役を自分に当てはめて演じてしまっているものなのではないか。生物学的、社会的な母親、父親なら母親らしく、父親らしく、子どもに対して大人は「大人しくしろ」と言い、大人らしく振る舞うことを求めたりしてきた。そのような、社会的な役割の押し付けには、私たちはうんざりしてしまって、そういう押し付けにははっきりとNOを突き付け、自分らしく生きることを目指そうとするブームが始まって、かなり裾野が広がったのだが、自分らしさというものもまた、自分で自分という役割を演じることに他ならなかったと、私たちは薄々気づいている。力みなく、自分らしい自分でいられたらという憧れはあるものの、どうしても頭で考えて、これが自分らしさだ、という価値判断によって、自分という人形につながれた紐を動かして、自分自身を動かしているような、本来の自分というものとは違う、自分を演じている自分を、私たちは自明のものと理解し始めている。この段階から一歩進んで、あえて自分ではない役割を演じてみようとする人たちが現れ始めているのだと思う。明らかに自分ではない役を演じている間に、操縦する/される自分から少し意識が離れていき、むしろそのような状態においてこそ、意図せずにじみ出た自分らしさを発見できるのかもしれない。

Perfumeも、Perfumeを演じて四半世紀になるわけだが、Perfumeらしく見えるときより、ネビュラロマンスのような架空の劇を演じているときの方が、3人の個性が露わになっているような気がして、でもPerfumeとして歌い踊るからには、これもPerfumeの姿であることは間違いない、とかぐるぐる頭の中で循環する動き自体に、価値を感じている。

 

④僕にはどうしてわかるんだろう/Vaundy

MVのBehind the Scenesによると、世界をループしている男が、いつものループと違う行動を取ったことがきっかけでループから外れてしまい、はずれた先で神秘に見える、というストーリーらしい。タイトル、ストーリー、映像全部意味不明なのだが、しかし楽曲、歌詞、歌のカッコよさでオールOKになっている謎のバランス感覚が気に入っている。多分中学生が一万人くらい「焦シアン蒼白」の歌詞を検索していると思うので、私も検索してみる。

これは「焦」「シアン」「蒼白」で分けるのが正しそうで、焦色は焦げ茶色、シアンは色の三原色の一つになっている青緑色のことだ。蒼白色についてWikiを見ると、不思議なことに、紅系と青系の2系統があるという。

紅系なら、赤味が抜けた薄い白、青系なら、青味が抜けた薄い白であるらしい。なんと、「顔面蒼白」は、紅系の白の意味で「蒼白」と言うのだそうだ。単に青白いのではなく、血の気の赤が失せてしまって白くなっている様を言っている。また、「翡翠」という言葉も出てくるが、翡翠色は、「青緑から黄緑まで、様々な緑色を包括する色名」であるという。日本で古来から使われている色名というのは、現代で名前と色を1:1で対応付けたがるのとは違って、ある程度のゆとりをもって使われてきたと聞く。実際の色の成分としてはある色名で表現するのがふさわしくないと言えそうであっても、対象を見る人の主観や、対象の周囲の状況によっては、その色名で呼ぶことが、社会的に許されているところがある、ということだ。そしてモノクロとは、本来色のある物を、白と黒の二色で表現する形式だが、モノクロだからこそ、どんな色を感じ取るか、という余地が、受取手の側に残されている、とも言える。さらに飛躍させると、物ではないもの、特に自分自身の過去の思い出というのは、詳細が省かれてシンプルになり、当時のリアルが持っていた細やかな色が抜け落ちてしまうものであって、蒼白色やモノクロと呼ぶのは的を得ている。過去の平板な思い出も、折々に振り返るにつけ、違った印象、色をもつ可能性に開かれている。このような関係が分かっていれば、無限ループのような色のない生活の重力から逃れ出る一歩を踏み出すことができる。