2026春は、namitape氏のhetoheto room全曲をかなり聴いているので、全曲感想書く。
①nawatobi drive
きみの目はいつのまにか だれもきみを期待してないけど
冒頭から緊張感がある。霞がかった歌愛ユキのボーカルと、音の感じが、大貫妙子っぽいなと思った。大貫妙子の『都会』は、「その日暮らしはやめて〜」で高く転調し、上昇していくような浮遊感があるが、なわとびドライブは途中まではキラキラ音でウキウキしていたところに、1オクターブ低い曇ったボーカルとドスの効いたバスドラムが入り、浮かびあがりたい体をグッと押さえつけてくる。普通のJ-POPなら、Cメロで押さえつけてからラスサビで解放して、気持ちよくなるパターンだが、なんと抑えつけたままフェードアウトして終わる。最初に聴いたときの衝撃がすごかった。アルバムの一曲目で、聞き手にものすごいストレスをかけてくる。ポップスは、聞いて気分が上がるものかと思っているが、nawatobi driveはポップスとは言えないのかもしれない。
この曲を聴いて恐ろしくなって、最近の音楽の聞きやすさを思う羽目になり、リスナーへのサービス精神をアーティストが発揮してくれているから、盛り上がれる、という図式まで確認してしまった。最近は、好きな曲を聞いて好き勝手に書き散らしたりしているが、実は好きになってもらいやすいようにデザインされた曲を、案の定好きになっているだけではないか?アーティストとリスナーではなく、製造者と消費者の構図になっている。もちろん音楽の才能のあるアーティストから、リスナーへ届けられるという傾きはあるものの、もう少し互いが対等に向き合うような雰囲気になってもいいのかもしれない。音楽は、内側に社会の流行や、タイアップしたコンテンツの要素を流れさせるためのメディアになれるが、音の鳴り自体を届けることを目的に据えることもできるはずで、それに耳を傾ける聞き手が鍛えられていくべきなのではないか。
歌愛ユキの再ブームに至るまでのVOCALOID文化は、昔から今も商業的に強い仕組みが現れていないように見える。楽曲をサービスとして売るということから自由であり続けている。CEIPAは、MAJでJ-POPを再定義して、延命を図っているが、J-POPは結局、アーティストや事務所のサービスを売り物とした金儲けの手段でしかない。nawatobi driveを聴いて、なぜ恐ろしくなったかというと、お金の匂いがしない、純粋な音楽がむき出しでぶつかってきたような、通り一遍の挨拶で済まそうとしたら、やたら深い話を仕向けられ、回答を求めてきたような、または、辻斬りに勝負を持ちかけられたような、安全だと思っていた動物が急に牙と爪を剥き出しにしてこちらを睨んできたような、とにかく、聞き手に何かアクションを強いる攻撃性を感じたためだ。
②masshiro sunday
今度はYMOを感じる。懐かしさのある電子音と、軽快な4つ打ちドラムの組み合わせだからだろう。YMOと同時に、Perfumeも感じたので探したらリニアモーターガールだった。歌愛ユキがアイドル成分を担っているから、テクノポップと合わさると末期YMOや初期Perfumeを感じるのだろう。
歌詞は、写真をパシャパシャ撮って楽しくなっちゃおうみたいな感じだが、撮った写真が保存されているはずのフォルダには、大量の真っ白な画像が入っているのだという。恐らくその真っ白な画像は、日々思い出として撮ったはずの写真なのではないか。それに気づいてからさらに歌詞を読むと、泳げるような場所も、おひさまも、「君」も、本当は何もなくて、ただの白くて四角い部屋にいるだけだから、写真を撮ってもただの白い壁の画像にしかならないのだと気づいてしまった。
いよいよ現実味をもって開発されそうなVR空間を連想する。例えば「超かぐや姫!」式のコンタクトタイプや、そこまでは無理でも「電脳コイル」式のメガネタイプだったとして、部屋でVRに入った状態で、VR上の友達を撮るつもりで、リアルでスマホで撮ったなら、部屋の壁だけが写った写真になるだろう。VRがLINEのようにメジャーなSNSになったら、とにかく今より楽しくなるだろう、と楽観的に考えていたけれども、当然VRとリアルが乖離することには問題がある。もし、VRの方が楽しくて、リアルを回していく力がなくなってしまったら?VRがあることで、むしろVRもリアルも等しく虚しい場所だと感じてしまったら?新しい恐怖の予感がする。
③shiawase siren
内省的な歌詞と、中途半端に明るい曲調がマッチしていないから、聴きにくさを感じる。これは批判しているのではなく、消費されるために作られた、おいしく調理された音楽とは違う、消費しにくさに価値があると思っている。歌詞を眺めていても、ストーリーが汲み取れない。早く何かを「わかって」しまって、一旦脇に片付けてしまいたいのだが、何度聞いても、「shiawase siren」としか言えない。主張したいことは何なのか、描いているのは幸せなのか、幸せではないことなのか。分かれていない複雑な何かが、デコレーション無しにそのままの形で提供されている。何かをシェアするときは、シェアする対象の見栄えを調整する文化が浸透してきているが、この曲からは、そのような調整の雰囲気を感じない。ある意味、自然なのかもしれない。消費しやすいように加工されたものは不自然だと思っているので、その裏返しだ。
ここまで書いた後聞き込んだので、歌詞について頑張って解釈してみよう。劇的なことは起きていないが、何かが確かに変わっている。サイレンは、主に危険を知らせるために鳴らされる。サイレンが鳴るのなら、どこかで危険が発生している。でも、ここではない。どこか別の場所に危険がある、という情報だけを受け取っている状態だ。自分自身は具体的な危機に瀕してはいないのに、危機がある、という情報があるために、無意識のうちに危機に対処できるように準備してしまう。そのような状況を、幸せだった、と言っている。歌詞の最後に「僕は二度と目を覚ますことはないだろう」とある。歌詞世界の中では、認識の転換がある。過去の幸せは、「目を覚ますこと」の下にあったが、今の幸せは、「目を覚まさないこと」の下にある、というように変わったと考えられるのではないか。サイレンは、大きな音がするはずだ。サイレンによって、目を覚まされる、という生活がある。そのような生活は、一見すると、危険の存在を事前に察知し、準備できる、というメリットがあり、そのメリットを享受できることは、幸せな境遇なのかもしれない。しかし、リアルの社会で伝わってくる危機の知らせは、99.99%以上自分と直接関係がない。危険と自分は本来無関係で、「届くはずがない」のに、サイレンという仕組みと、その仕組みから送られる音が、無理やり関係を結ばさせてくる。
危険を知らされると、その情報の受け手は、何かしらのアクションを迫られる。何もしない、ということすら、選ばされた行動になる。もしサイレンが頻繁に鳴るなら、私たちはその都度右往左往させられるが、サイレンを成り立たせている仕組み側からは、そのように対処できることを喜ばねばならないと、思い込むように仕向けられている。サイレンというと抽象的だが、スマホに来るあらゆる通知にも、似た性質がある。通知が来るだけで、そこに行動が予約される形になる。予約は積み重なっていき、対処せずに時間が経てば、対処しなかった、という灰色の事実がゴミのように残っていく。そして、サイレンを受信するという「幸福」を受けながら、ゴミを散らかすことは、サイレン送受信者の会においては倫理的な悪として批判される。でもこんなのは、やっぱり幸福ではない。動くことをやめ、耳をふさぎ、目を閉じて、「幸福」であることをやめて、自分にとって本当に大事なのは何かを感じ取り、現実を回復すべきだ。
④tameiki continue
もやがかかった迷いの森で同じ場所をぐるぐる回っているような曲なのだが、突撃する鼓笛隊のようなフレーズが定間隔で繰り返されるのが怖い。リセットする度に記憶を失うタイプのループものを見ているようだ。リセット直後は意気揚々と歩き出すのに、その後はループのデジャヴ感覚に捕われて、手と足がバラバラになっていき、同時に全てがゆっくりとなっていって、ため息と共にリセットされる。歌っている主体が物語の主人公だとしたら、何か病的な状況に陥っていると、音楽によって伝わってくる。
⑤aozora hole
あずまんが大王のアニメOPの、空耳ケーキを連想した。日本語表記にすると曲名が似ているのが怪しい。ホール(whole)ケーキという言葉とも洒落がかっている気がする。曲調も少し似ているが、aozora holeは途中からコズミックなブレイクビーツに展開する。去年「スーパーに閉じ込められた僕ら」でコラボした、DÉ DÉ MOUSEのtide of starsあたりの昔のキラキラ系のアルバムを思い出した。「誰もわからない 私の音」がこの音なのだろう。この世を縦にぶち抜く穴の上、天上から響く音として納得感があるのは、地上から空を見上げる視点が先に描かれているからなのかもしれない。
「まるでかわず」って、やっぱり井のなかの蛙のことなのかな。蛙の世界は、上に大きな穴が空いている。本当は蛙の世界そのものが穴なのだが。これを人間に置き換えるとどうだろう。もし、この世界の上に穴がたくさん空いているとして、その穴を上から覗いたらどう見えるか。問題は、排水溝のように、上側に穴が沢山空いていて、中はひとつの空洞なのか、それとも、レンコンのように、ひとつひとつの穴が別個の空洞になっているのかどうかだ。この後のhetoheto roomに繋がるのは、レンコン状の穴が空いている説の方な気がするので、レンコンイメージで進めようと思う。
私たちは日々連携しているように感じているが、それは頭上の穴を介した通信がそう見せているだけで、実際にはお互いに孤立している。その様を端的に表すと、巨大で無数の穴のあるレンコンを、垂直に置いたイメージになる。活動する個人の周囲だけを縦に切り取るように、穴は空いており、個人が動けば、穴も動く。世界をそのように捉えてみる。「支えてるのはあなたじゃない」という歌詞があるが、この世界がレンコンなのなら、その穴である私たちは、この世界の一員ではあるかもしれないが、レンコンそのものの構成要素には全く関わりがないことになり、それはそうだなと感じられる。しかし、穴自体である私たちは、自身の実体のなさをどうやって見て取ることができるだろうか。人間特有のメタ的なものの考え方を発揮し、人間を、口から尻までを穴で貫かれた、縦方向の空洞だとして、また、社会は、その空洞の雑多な集合だとすれば、見て取れるかというと、難しい気はする。aozora holeという物語に立ち返ると、天井の穴からは音が聞こえるという。人々は普段、左右の耳を塞いでいて、その音を聞いていない。aozora holeでは、その音を聞くことによって天に浮上し、穴をくぐり抜け、レンコンの上に出て、レンコン以外の穴としての私たちを見て取れるようになる様子が描かれている。天の音というのは、ピンとこないが、まず自分が孤立した空洞かもしれない、と勘付いた後の段階の課題として、それでも遥か彼方では繋がっているというか、レンコンの中の穴が穴の外と切れ目なくつながっているように、自分と他者は根っこ(または天辺)の部分は同じ一つなのだ、と気付く季節というものが、人間社会にいつかは訪れるのではないか。
つまり、半分に切ったレンコンの穴を地ではなく、図と捉え、かつ、レンコンの穴の外側をも図の一部として見ると、無数の足と、無限に広がる頭を持つタコのような立体が取れる。(断面と反対側の穴は塞がっているものと考えた場合、)トポロジー的に圧縮していくと、これはドーナツ状ではなく、ボール状になる。よって私たちはひとつのボールの一部に過ぎない。こんな感じでやっていくと、レンコン教という宗教になりそうだが、その宗教の讚美歌は、天上で鳴っているのではない。あくまでボールにおいて鳴っているのだが、なぜか地上にぐいーっと伸びた穴たる私たちは、誰かが地上でけたたましく鳴らすサイレンなどは聞いていても、ボールとして鳴る音声の方は耳を塞いで聞いていないことが多い。しかし常に空の上で音がなっている。誰かが鳴らしているのではない。ボール=私に開かれていさえすれば、その音は誰にとっても私の音、私が鳴らしている音なのだ。
⑥darekano mall
私の、ではなく、誰かのショッピングモール。大名曲「スーパーに閉じ込められた僕ら」の前か後に置いても違和感がない。遠くで鳴っていた音が、途中から私の側で鳴るときに、一定の間隔でスピーカーが設置された無限に広がるモール空間を水平方向に吹き飛ぶ感じがする。楽しくなるが、でもここは私の居場所ではないんだ、と思い直し、悔しさと寂しさを噛み締める私を置いて、モール空間は続き続ける。もしかすると、私の位置は何も変わっていなくて、モール空間だけが縦横無尽に動きまくっているのかもしれない。
何度か聴いていて、ヴェイパーウェーブというジャンルを思い出した。2019年の面白い考察があった。
https://mercuredesarts.com/2019/05/14/diary-heisei_era_devastation_2-vaporwave-noirse/
ヴェイパーウェーブは、ネット文化が一般に浸透した結果、明確な創始者がない中で、これといった由来なく形成されていったジャンルで、資本主義批判、反消費社会の側面があるという。ショッピングモールという主題は、ヴェイパーウェーブの文脈に則っている。私の、ではなく、誰かの、と言った途端に、darekano mallは消費社会と一歩距離を置き、批判的意識の俎上に乗せられる感じがあり、歌詞がなく、暗い曲調でもない割には、消費社会批判寄りの印象を受ける。
無限に広がるモール空間のイメージは、ネットミームのリミナルスペースを念頭に置いている。「スーパーに閉じ込められた僕ら」は、The Backroomsの用語が歌詞に入っていたが、ナミテープ氏が製作したPVは、スーパーマーケットのモチーフがメインだった。無人のスーパー、ショッピングセンター、モールも、リミナルスペースの代表例だ。リミナルスペースとは元々は、部屋と部屋をつなぐ廊下や階段、部屋と部屋の間を埋める空間を指す建築用語だったが、ミーム化したリミナルスペースの方は、人工的だが、無人で、不気味な空間を言うようだ。
この不気味さ、という印象から、aphex twinまで思い出してしまった。DTMの黎明期の時点で、工業的な構築物として作られる音楽には、人間の不在感があり、不在のまま展開し続ける様が不気味さや、恐怖の新しい源泉となることを予知していたかのようだ。リミナルスペースの恐ろしさは、人工的な空間が、人の手を介さずに、切れ目なく無限に繋がるところにもある。リミナルとは、中間領域という意味がある言葉で、始まりでも終わりでもない、過渡的な状態を指す。リミナルスペースというミームは、このリミナル性が自己完結的に永遠に続くことへの不快感、恐怖感が表現されたものと言える。抽象的に考えると、リミナルスペースは、反人間的なのだと思う。フィクションで永遠の命というテーマがよく扱われるが、それに対する回答としては、無限の生より、有限の生を選ぶ傾向がある。これは、「無常」が人間存在の真理であると考える人が多いためだろう。この世のあらゆる物、事には始まりと終わりがあり、その始終の連続の積み重なりが、この世界を形作っている、というのが無常観であり、人間観だと思うが、リミナルスペースはこれに反している。始まりも終わりもない人工的な仮想空間は、無限の生に近いものだ。(有限の生→無限の生に移行した場合は、始まりを黒く塗り潰す効果がある。それは忘却、逃避、不遜、侮辱など、様々な罪として名付けされる。)
darekano mallは、フェードインで始まり、フェードアウトで終わる。元々そこにあるmallに焦点を合わせることによって曲が始まり、しばらくしたら焦点を外すことよって曲が終わる。しかしこの視点の持ち主が不在でも、mallはこれまでもこれからも存在し続ける。ショッピングモールという建物には確かに、竣工と解体という形で、始まりと終わりがある。しかし、ショッピングモールという仕組みには、実は始まりも終わりもない。私たち人間と、本質が根本的に違うから、私や私たちのモールではなく、誰にとっても誰かのモールなのだ。
⑦hetoheto room
昭和歌謡のようなエフェクトが曲全体にかかっている。昭和の日本は、あちこちが発展途上で、時間の経過量と社会の改善度合は比例して増加すると、何となく信じられていたのではないかと思うが、令和の世では、これ以上は無理なのかもしれない、という頭打ち感が強くある。さらに、個人間の横の連帯が限りなく薄くもなっている。少し頭を掠めるのは、クルド人や中国人は、比較的少数で異国に住んでいるから、日常的に連帯をしているが、今の日本人から見て、その連帯感を少し羨ましく思う所があるのではないか。人間関係の煩わしさからなのか、血縁、地縁を離れて、様々なソーシャルネットワーキングサービスを駆使して、関係維持にかかるコストを最小にする努力を各自がしている気がする。それで生活は続けられるが、どこか疲れが取れない。一人ひとりが一人ひとりだけの小部屋で疲弊している、というイメージが、「へとへとルーム」というタイトルに込められているように思う。「ルーム」からは、The Backroomsも連想される。The Backroomsのレベル1は、無人で不気味なオフィス空間が際限なく続く空間となっているが、現実においても、会社が用意する、綺麗に仕切られ、誂えられた無機質な部屋は、この社会にほとんど無限に存在している。そのような部屋は、抽象的に「ルーム」とカッコ付きで呼び表すべき、何かである。
私たちは疲れている。なら、疲れのリカバリーを図るべきなのではないか?「ルーム」は、社会から押し付けられているもので、そこから離脱する最も単純な方法は、社会から独立して自給自足するか、日本国外に出るか、になる。しかし現実的には、そう簡単にはできないので、別の方法を探るしかない。「ルーム」の内側に居ながら、「ルーム」に起因する疲れをコントロールしなければならない。そうなると、どうしても「ルーム」とは、メタ的な距離を取る必要がある。「ルーム」のなかでへとへとな自分をまず第三者目線で捕捉しなければならない。人間には、こういうことができるはずだ。どんな地獄であっても、物理的に命が脅かされない限り、仮想の空間を作ってそこに逃げ込み続けるような認知活動をする機能が、人間の知性には備わっている。仮想の空間を作る、というのは、言い換えれば、逃げ出そうとしている「ルーム」の存在を信じる、ということかもしれない。そして、「ルーム」において、へとへとになって閉じ込められている私がそこにいるのだと信じ、その私を救うのだ、救いたいと信じる。そうして初めて、私は「ルーム」の外側から、内側にいる私を救う手立てを考え始めることができるようになる。
「ルーム」の中のものを、外に出すのは難しいので、出さないままで、リカバリを図る方向で考えようとしてみる。ここからなぜかゲーム的になるが、「ルーム」内の私に回復魔法をかける、というイメージはどうか。もちろんリアルに魔法が使えるなどとは思っていない。そもそも「ルーム」という何かが観念の産物なので、「ルーム」内の私に干渉できるのもまた観念だろうと考えている。そして現在の私たちに馴染み深いゲームという大きな情報の束と、それなりの時間が嵩んでいるゲーム体験が、実体のない「ルーム」に対して有効な武器になるのではないか。
自分に対してリカバリーをかけるようにする、とはどういうことか。身体の凝り固まった箇所に気を配って、身体がほぐれるように日常の動作を工夫する。癖や習慣が疲れの原因になっていないか点検し、やめられることなら少しずつ改善するように努力する。軽い運動や深呼吸をするための時間を少し取って、適度に継続的に実践する。身も蓋もないことばかりだが、重要なことは2つある。まず、身体感覚への集中が必要だ。私たちはスマホやディスプレイといった、身体の外に集中する時間が多すぎる。自分の肉体、ひいては精神に集中する時間をもつべきだ。内側に集中することで、「ルーム」に閉じ込められている私が浮かび上がって見えてきて、リカバリーを図れるようになる。逆に言えば、「ルーム」にいる私をリカバリーできるとき、私は自分以外の物事から自由でいられている、ということであり、自由であることが、リカバリーの本質にある。
2点目は、リカバリーに、ゲーム的なイメージを援用することだ。ショッピングモールとは、物理的な建物と、ショッピングモールという仕組みが重なった空間のことを言う。「仕組み」とは、ルールの集合であり、ゲームもまたルールの集合である。そして、「ルーム」とは、物理的なオフィス空間に、会社または社会の仕組み、ルールの集合が憑依した場所だ。ルールには実体がないが、そのルールを守る人が多くなるほど、そのルールには存在感が出る。現実に存在する空間が枠となって、非実在のルールに、輪郭を与えるためだ。そして、ルールが詰まった箱の内側で疲弊するのは、箱の内側で、ルールの一部として絡め取られているためではないか。前に書いたように、物理的に箱の外側に出ていくのは難しいことが多いので、箱を客観視し、ゲームという、より大きな箱に収め、自身はそのプレイヤーになるという形で箱から幽体離脱する。ゲームの中の自分を癒したいならば、回復魔法をかけるイメージで具体的な行動を取ればよい。まあ、賢い人は誰に言われずとも、このようなことを自然とやっている気がする。その辺が自然にできない人は、まずゲームのイメージを持って臨むのがいいのかな、と思った次第だ。
⑧sakasama reset
いつだって私はめちゃくちゃにする
準備はできてる
つまらない世界はみんなで破壊しよう、私は準備できてるし、積み上げたものが全部なくなっても大丈夫。つまらない繰り返しよりマシだよ、壊そう!という熱いメッセージが、思いのほか強く、社会的なアジテーションとして響いてくる。この説得力は、冒頭から大気が覆いかぶさってくるようなプレッシャーを与えるなわとびドライブから始まり、私のためにあるわけではないショッピングモールや、不気味な空間の無限の連続の中で振り回され、疲弊させられる様を、アルバムの各曲で追体験した末に聴くから、生じてくるものだ。
500人くらい、という数字について、最近オードリー・タンのプルラリティで学んだ、ダンバー数がぴたりと当てはまる。人間が安定した社会関係を維持できる人数の認知的な上限を、階層的に区分けしたもので、巷では、500人は会えば会釈する程度の知り合いの数の上限とされている。生きていれば自然と人間関係は積み上がっていくようだけれども、実はSNSをフォローしたり、友達追加しているだけで、親密な関係構築できている人数は思っているより少なさそうだ。SNSのアカウントを消して、関係を丸ごと消してしまう人がいるが、逆に言えば、SNSのアカウントさえなければリセットされる程度の関係でしかなかったということでもある。積み上げたと思っている何かは、こんな感じで、内実の伴わない物ばかりになっていないか?そんなものは全部ご破算にしてしまっても何ら問題ないし、むしろ現実的な繋がりを取り戻す良い機会ですらあるのではないか?そういう問題提起がされている。リセットして始めて、本当に大切なものが見えるようになる。現実が、私たちに息をしにくくさせるなら、そろそろ私たちが前提と思っている現実を疑ってもいい頃だ。生きている時間が積み上がるほど、私たちは誰かの作った仕組みや、自分の作った仕組みが何層にも重なってできた部屋の中に閉じこもるようになる。私たちはそこへ、本当に望んで入ったのだろうか。丸ごと抜け出ることは、もはや難しいが、仕組みの一つや二つくらい、壊さないで、どうして生きているといえるのか。壊すといっても、暴力や、権力でねじ伏せては、別の仕組みを作ってしまうだけだし、仕組みをあげつらって非難するのも、陰謀論に陥る危険がある。仕組みの中で働きながら、仕組みからはみ出すことを同時に、くり返し行うのがよい。そうやって少しずつ仕組みに揺さぶりをかける。すると、時間をかけて仕組みを成り立たせている根元が柔らかくなっていき、いつしか仕組みに実体感がなくなる時が来る。その様をぎゅっと縮めて見たなら、壊したという表現が当てはまるだろう。ここでまた、Perfumeを思い出した。
とても大事な キミの想いは
無駄にならない 世界は廻る
ほんの少しの 僕の気持ちも
巡り巡るよ
くり返す このポリリズム
あの衝動は まるで恋だね
くり返す いつかみたいな
あの光景が 蘇るの
sakasama resetの「くり返す景色は 似たものばかり つまらないでしょ?」という歌詞からの連想なのだが、妙に近さを感じる。今までポリリズムの歌詞について何も考えてこなかったのだが、くり返しの中で生きざるを得ない、という前提においてもなお起きる衝動が、くり返しをほんの少しだけずらしていく、と歌っているのかもしれない。この世界の大きさからしたら、何の意味もないようだけれど、全くの無駄にはなりようがないという、ある種の祝福が込められている。
ポリリズムとは、一つの演奏中に、複数の拍子を同時に演奏することで、独特の効果を狙う手法で、Perfumeのポリリズムでも、「ポリリズム」とくり返し歌っている部分は、四拍子のまま、五文字を乗せていて、拍子と単語の文字の位置が一文字ずつずれていくようになっているらしい。拍子という仕組みをキープしながら、中身をずらして、全体としてのあり様をダイナミックに変化させる手法だともいえるだろう。つまり、仕組みを維持することと、その内実をずらすことは、同時に行える。そしてずれが揺らぎを生み、時には、仕組みそのものの性質が変わる場合もある、ということだ。
最後に、タイトルの「逆さまリセット」について、何が「逆さま」なのかを考えてみよう。私たちは一日一日をくり返しと思っているから、一日単位の時間の積み重ねがあると信じたい生き物だが、過去と現在の関係は、そう単純ではなく、現在の認識が過去を全部塗り替えてしまうこともある。過去の寄り集まりが現在を作っているのではなくて、あくまで現在を基準に、過去を取捨選択しているのではないか。積み上げたと思っている過去は、現在の自分が選んだ(、または、誰かに選ばされた)結果に過ぎない。何を選び取るか、というところは本来自由なのだが、過去がこうである私は現在こうである、という思い込みが強いと、柔軟さがない状態になってしまう。沢山の自己イメージが連なる、不連続な自分史の先端、または頂上にいる、というイメージを持っているとしたら、そこに転倒がある。現在の自分は、過去をどのように選び取るかという現在の価値判断によって決まっている。過去によって決まるわけではない。現在を変えようと思っても、過去がそうさせてくれない、という言い訳は基本的に成り立たない。今ここの自分の思想を根っことして、その上に乗っかっているものが過去なのだ。逆に言えば、乗っかっているものを全部どかし終えたとき、残るのは今ここの自分の思想であり、思想の内容を点検し、過去を編成し直し始められることが、「リセット」の最大のメリットになる。『少女終末旅行』の最後に、「生きるのは最高だったよね」というセリフがある。「生きるのは最悪だった」と考えたなら、道行きは最悪だったことになる。最高だったと今考えるから、過去が全部最高になる。今と切り離されて、最高の過去と最低の過去があるわけではない。リセットは何度でも試すことができる。リセットできる限りは、いつでもいつまでもリセットできる。

