異世界とは何だろう。かつては、海の外にあるよその国とイコールであったろうが、強力な移動手段や情報交換方式を得た現代では、外国の異世界性は大分薄まっている。もちろん、実際に行ってみれば相当に異世界なのだが、時間とお金をかけて頑張れば、なんとかやっていけるという印象があり、手放しに異世界と呼ばれることはないのかもしれない。一方、異世界生活系物語で言われる異世界とは、徹頭徹尾異世界であり、奇跡のようなことがない限り、異なる世界を渡ることはできないとみなされている。多くは死ぬことによって、あるいは、異世界側での大がかりな儀式によって「召喚」されることによって異世界を渡ることができる。何の脈絡なく、するっと世界渡りする作品はあるだろうか。異世界系の物語を見ていると、あちら側かこちら側で何かしら大きなコストが支払われない限り、異世界渡りは発生しないように見える。
ここで思いついたのは『犬夜叉』である。主人公の女子高生かごめは、実家の古井戸から戦国時代にタイムスリップする。並行世界ではなく、時間という縦軸でつながれた同じ世界へ転送される。「転生」というギミックも用いられていない。また、何かを失わなければいけないこともなく、かごめや犬夜叉は頻繁にタイムスリップをしており、異世界系の列に加えることはできない。時間を隔てた移動を軸にした作品はやはり『ドラえもん』が嚆矢となるのだろうか。軽く調べると『浦島太郎』とかあるし、かなり古くから時間移動を扱う四次元の物語は存在していたようだ。異世界生活系物語に登場する世界同士で異なっているのは何かというと、時間の流れだろう。四次元的な時間の浮き沈みのセットが複数存在するので、簡単に言って五次元の物語だと言える。
四次元渡航を実現できているわけではないが、ある意味私たちは、過去の記録を鮮明に保持できるようになったことで、疑似的な四次元移動を体験し尽くしているのかもしれない。あまりに四次元的事象が身の回りにありふれ、異なる時代の世界に魅力を感じなくなったからだろうか。時間を相対化し、複数の時間・歴史・物理法則を持つ異世界という五次元的発想を繰り広げるようになった。人間は、意識ある限り、いくらでも高次の発想に橋頭堡を築くことができる。そうやって私たちは、取り返しのつかない一歩を進み続けるのだろうか?
私はそうでもないと考える。この「異世界」というギミックは、過去の物語の復権を意味しているのかもしれない。私たちはもう、真正直に幽霊や妖怪を本当に信じることはできない。フィクションとして消化するだけだ。しかし異世界生活系物語の「異世界」は、フィクションとして切り離してしまえない、身に迫る現実感がある。異世界系物語には、「ゲーム」という強力な物語が装填されている。平成生まれくらいからは、幼い頃からTVゲームがあり、あらゆる人が少なからず遊んだはずだ。打てば響くというか、ゴブリンと言えば大体伝わるし、魔法が存在してもナチュラルに受け止めることができる。雷を操ったり、空間を転移してもさほど驚かないし、そういうものをコストなく想像できてしまう。そういう人が本当にたくさんいて、そういう大衆の中で、異世界生活系物語は花開いた。「異世界」とは、現実の私たちのそばにあるゲームという、電子端末の中にあるオルタナティブな世界であり、そこには私たちが生きている世界とは異なる時間が流れている。鬼やら神が現実的だった昔、彼らの住む世界と人間の世界には曖昧だが確実に境があり、まれに互いに越境してしまっても、コストなしには済まされないような緊迫した異世界が側にあった。その頃と性格は違う。ゲーム的異世界はかなりフレンドリーで、電源を入れるだけで気軽に交流をもつことができる。しかし今も昔も私たちは、異世界に魅入られてしまう。電源を落とすだけで形式的に繋がりが断たれてしまうゲーム的異世界だが、そこへ一生懸命没入していく人は少なくない。
妖怪的異世界と、ゲーム的異世界の差が、異世界生活系物語に切実さを希求する根拠となっているかもしれない。ゲーム的異世界があまりにお気軽であることと、私たちがゲーム的異世界に捧げている愛が釣り合わないところから、そこを埋め合わせるような物語が必要とされてくる。ゲームへの愛と釣り合うようなコストが支払われるような物語が作られる。簡単に異世界に飛んでしまっては、ゲーム的異世界の軽薄さを浮彫りにしてしまう。だから、コストを支払わなければ飛べないような仕組みが物語に注入されてくる。死が絡みやすいのは、そういう理由からだろう。実際のゲームが電子的存在で実体がないとしても、私たちのゲームへの愛は切実で、それがないなんてけして言えない、形はなくとも確実に存在しているような、そんなものだ。ゲーム的妖怪である私たちを逆照射するゲーム的異世界を主とした物語群を、私は「異世界生活系物語」と呼ぼうとしている。
余談だが、『少女終末旅行』は「ゲーム」という強力な物語を採用していないのに、異世界生活系物語に見える点が稀有だと思う(べた褒め)。無目的に、上の階層に向かっていくというところに、かすかなゲーム性を感じる。原初のゲームは、下から上に向かっていくものが多かったのではないか?頂上の祝祭的空気は、ゲーム的達成感が援用されているように思える。なぜわざわざ異世界「生活」系物語と呼ぶかというと、異世界系物語では、『少女終末旅行』が取りこぼされてしまうかもしれないからだ。私はなぜか、こだわって、この作品を異世界生活系物語の列に加えようとしている。異世界生活系物語は、ゲーム的異世界という柱の他にもう一本、「生活」という柱をもっていると考えている。『少女終末旅行』は、「生活」の側面から見て強力な物語になっていると思っている。まだあまり考えていないのでよくわからないが、そう直観している。考えたら、そうでもねえかもしれねえ。かなりお気に入りなので贔屓している。
なんにせよ、小さい頃からみんなで触ってきたゲームが、今の物語群を生んだ元になっていることは間違いないと考えている。そういう生命力を想定している。幼い頃の現実が、物語として昇華する。この仕組みが私には尊く、愛おしく、今生きて存在できていることへの感謝の念さえ覚える。ふたつのことを考えている。スマートフォンネイティブ世代が作る物語はどんなものだろうということ(次は、コストなく複数の世界を気軽に渡り歩くとか、新しい世界を簡単に誕生させたりするかもしれない。でもそうなると異世界ではないので、何か別の言葉があてはめられていくだろう。)と、ロングテールが大きく進行した場合に、どんな物語が生じうるのか、ということ(物語への純粋な憧れをエンジンにした、壊れながら鈍く輝くような物語が生まれることを期待する。)だ。
これらは当面置いておく。次考えることがあったら、異世界生活系物語の「生活」の面を取り上げたい。