味読とは言うのに、味聴とはあまり言わない。コンテンツを取っ替え引っ替えすることに疲れたので、対象を絞って繰り返し聴くことで、曲を聴いている自分自身を発見しようとしてみる。要はヘビロテするだけではある。ヘビロテしていても、いつかはやめる。それは飽きたからなのだろうか。あるいはその曲を聴かなくてもいいほどに、その曲のエッセンスを自分のものとして吸収したからかもしれない。吸収したいエッセンスとは、死ぬ前などに振り返って見たときに自分ってこんな人だったね、とタグ付けできたら安心だな、という打算の働くところかもしれない。目標としては、打算的な部分と、自分に変化をもたらすような良し悪しを言い難い何かに分類したい。
①イガク
原口沙輔は東京五輪でパフォーマンスしたことがあるなど脅威の経歴をもつ超新星だそうで、そんな人がつくる曲を聞いている自分も、何かすごい人物になったような気持ちがしてくる。なぜユなのか、ドクターキドリとは誰なのか。発想が突飛すぎて、AIからの出力に手を加える形で制作していると言われたら納得できるような、由来の分からないブラックボックスに立脚して踊らされる不安があるが、そもそも世界に由来の決まったものは一つもなく、PCが発明される前から事物に神話や昔話、伝承といったタグ付けをし、由来があるものに囲まれる安心感を演出して暮らしてきた。でも最近はそういったタグ付けを個々人が自覚的に行おうと頑張っているところで、その過渡期においては、ブラックボックスと揶揄されるのも仕方がないのかもしれない。でも全ての事物は結局のところブラックボックスだという意識が世間に定着すれば、ブラックボックスよりも、踊ることの自由を見て取るようになるだろう。今若い人は自由に後ろめたさを感じているのかもしれない。恐る恐るという感じでブラックボックスに乗り、眺めを確認しているところのようだ。交響する他者の自由を奪わない限りにおいて、ブラックボックスを各自立て、踊ればよい。
②People365
曲の最後、ほんの少しだけ残響が入っていることに気がついてしまった。相互に越境不可能なはずの向こう側から、微かに信号が届くとしたら、それは奇跡と呼ぶにふさわしく、奇跡を起こしたと信じるに足る力を秘めた曲だと思う。個人のフィクションではなく、日本人全体に普く通じるフィクションだと感じるからこそ、近い人の死ではなく、東日本大震災レベルの大きな死をイメージするし、震災後を個々に生きている多くの生活をイメージする。ここまで主張するのにも根拠があって、「割れて止まった針は あの日のまま」という3.11を連想させる歌詞が入っている。3.11後の日本人は、15900人の死者と、2520人の行方不明者が消えた向こう側の世界への感受性を高めなければならない。誰かが言っているのを見聞きしたことはないが、宇多田ヒカルの「道」も冒頭「黒い波の向こうに朝の気配がする」で始まっていて、3.11後の私たちの話だと勝手に理解している。「道」と比べてしまうと、実は「People365」が到達している地点は道半ばなのかなと思えてしまう。
③さよーならまたいつか!
100年前の人が思う100年後と、今の人が思う100年後、まあ違うのだろうけど、内容が違うということより、質的な違いが問題になりそう。100年前の人々には未来の100年を現実的に達成できる夢と思えたのかもしれないが、今の100年後、もうまったくどうなるか分からない。ものすごく技術は進んで、人間としてはあまり変わらず、戦争は難しくなって日本人は半分以下になる。実は日本という仕組みはサービス終了を待つ段階にあり、個人の造作で何とでもなる恐ろしい時代が始まろうとしている。逆に言えば、100年前の人々と同じように、100年後に向けた大きな自由のゲームが既に始まっている。戦後の物理的な荒野とはまた違う、ゴミ屋敷のような不必要な過剰さの荒野に立ち、ここは自由の飛び上がる余地のある場所だと信じることができるか。それは、100年後を思わない人間から、フィクションとしてでも100年後を思う人間に生まれ変われるか、という課題である。
④あらわれないで
バンド名の由来はマーヴィン・ゲイのアルバムの邦題だということで、まあ由来もちゃんと用意してるのね、と悔しくなった。何か自分の知らない美しいものを知っていそうで、嫉妬している。聞いてみると、ソウルとジャズの中間なのかな、という程度の解像度でしか聞こえなかったが、とてもよかった。あらわれないではシティポップだと思っていたが、シティ感、都会的という感覚はどこからやってくるのか。マーヴィン・ゲイには生々しさがあって、都会的というのとは違うと最初思ったが、自由恋愛に魂を捧げる人間像も都会的といえばそうなのかもしれない。ただしシティポップとなると、野放図な性愛の叫びではない、抑制されたところが出てくる。改めて歌詞を見ていて、「いっそセレナーデ」という井上陽水の曲名が歌われていることに気づいた。セレナーデとは、夕方や夜に恋人のために外で演奏される楽曲のことだという。いっそセレナーデの情景では、ラジオから流れてくる恋の歌が、恋を見失った人にはさみしくも、かなしくも聞こえるが、その心情を自ら追っていくと、やさしいセレナーデにさえ聞こえてくる。このとき、セレナーデはおそらく恋の相手が歌いかけるのだろう。しかしこの歌いかけてくる相手は明らかに幻であって、幻を胸に抱きながら内に閉じこもっている。「あらわれないで」では、幻との付き合いをやめ、車で相手に会いに行く。悶々としているくらいなら、行動で愛を示した方がよくないか?という発想が爽やかに感じる。しかしなぜか不安が残る。それは、その相手が本当に存在しているのかという疑いである。「いっそセレナーデ」は、失恋も感傷も何もなく、ただ恋愛の歌を聞きながら穏やかに笑っている不気味な人間の歌かもしれない。「車」で会いに行く素振りがまったく見えないのは、そんな相手がいないからなのではないか。自由恋愛においては、恋愛なしに失恋が可能なのではないか。離婚伝説はそこをどう考えているか。あらわれないで欲しい幻に実体はあるか。もし安直にリアルな相手をイメージしているようなら、参照している「いっそセレナーデ」に足下をすくわれるかもしれない。失恋相手に実体がないのなら、車で会いに行くより、家でラジオを聞いていた方がよほどまともだからだ。
⑤May Ninth
5月を待っている、という歌詞ではじまる。テキサス州では5月になると雨が降るという。この歌も、遠い思い出を懐かしんでいる歌なのだが、その思い出が実在するのか、という疑いをもたなくていい安心感がある。前にカリフォルニアの自然を見たとき、岩壁や木やそこらをゴロゴロしている岩のスケールが、日本より何倍も大きいことに、自然に身を委ねられる安心感を感じたが、テキサスではどうなのだろう。西部劇の荒野の印象が強いが、自然のある所には、同じように雄大な自然が横たわっているのだろう。日本は水気が多いから、岩は砕け、木は腐り、水はそこかしこで細く流れていく。日本の自然は身を任せるというより、一緒になって流転していかないように踏みとどまらなければいけないというプレッシャーを与えてくる存在としてある。自分自身すら分解して海へ押し流されそうであるので、思い出など、そもそも残るようなものとは思えない。きっとテキサス州の雨は、大きな自然に少し揺らぎを与え、ひいてはそこに住まう人々の心をも移ろわせるのだろう。一方日本の自然は川の流れのように絶えず移ろい、人々の心もまたそうだから、時の流れには身を任せてしまって、逆に移ろいゆく思い出を思うことをしないような気がしている。流れていく自身を思い出として取り出す余裕が、アメリカ大陸にはあるのかなと思うと、羨ましく感じる。時間に対する感覚の違い、ひいては存在の異なりが、日本人にはまぶしく映る。
⑥二度寝
「順風そうな御伽の世界」と聴くと、天皇に対して自然と敬意を抱く日本人というおとぎ話が終了したあとの私たちを思う。地球上でも随一の長さで力を発揮した天皇と日本人の物語は、明仁天皇の生前退位によって終わった上、いま日本から何が喪われようとしているのかを日本人はあまり自覚していない、と勝手に考えている。今後は天皇という親の庇護から離れるように、個々人の精神的にか、国家として政治的にか、自立が謳われそうである。自立しなければならない、と身構えるほど、とんでもない量の誤った選択を繰り返さなければならず、何やら難しいことを海外から言われて本質を知らないまま追従してしまったりするだろう。MVのゴミの嵐からはそんなイメージが湧く。ゴミの嵐において、嵐を背景化し事実上無視して風下へ向かう合理的な人間となるか、ゴミにまみれながら風上へ向おうとする愚か者になるか。「いのちは闇の中のまたたく光だ」という有名なナウシカのセリフがあるが、MVの中で男が子どもたちをなんとも言えない顔で見つめた後、風上に向かおうとする瞬間に命の煌めきを見た思いがした。
⑦あわいに
ソロ活女子のススメというエッセイのドラマのOPだという。一人でいることは好きだが、一人でいるときに仕事のことを考えてしまったり、仕事のときに自分のことを考えてしまうことがある。なぜだろう。とにかく、心が今いる場所にない。このずれを是正するだけでも、シンプルになるはずだ。考えを一旦止めて、呼吸を整えて、肉体としてここにある自分を軸に、心のニュートラルポジションを再設定するのがよいだろう。その時その場所で本当に必要なことを考えられれば、場当たりでない、正しい選択をすることができるだろう。あわいにを聞いているだけで、賢くなる。自己を風に縁取られた空間のように捉える仕方が、仏教の空の思想に似ている。そして歌われている「布」とは、人間の網膜が捉えた光を投射する脳内のスクリーンのようだ。人間はスクリーンを介したコミュニケーションしか行えないから、目で見えている姿かたちとは裏腹に、まったく不可視の向こう岸との通信を強いられている。そんな中でできるのは、相手をよく知り、相手の気持ちを推し量る、言い古されたような教えを実践することだろう。こちらと向こうを隔てる布越しに、風は吹いてくる。
⑧Automatic(2024 Mix)
1998年12月9日リリース。なんとウインドウズ98の日本版が発売されたのが1998年7月25日。コンピュータースクリーンとは、98のことに違いない。彼にベタ惚れしました、という歌にコンピュータースクリーンという言葉を歌いこむ発想が最先端すぎる。25年以上経っても古びない。いっそのこと、Automaticはウインドウズ98への惚れ込み様を恋愛にトレースした曲だったのかもしれない説を推したい。七回目のベルで受話器を取るのはダイアルアップ接続で少々待たされることを言っているようだし、自然とこぼれ落ちるメロディーは98の起動音で、ウインドウズ98のスタート画面は、晴れた青空みたいな画像なので、パソコンを触れない間をrainy daysと表現することが的を射ているし、そばにいるだけで体が熱くなってくるのはパソコンの放熱や排気を受けたからだし、パソコンを初めて触る人にとってはスクリーンがキラキラとまぶしかっただろう。そもそも自動的とは、パソコンを端的に言い表したらそうなる。もちろん、パソコンの魅力をフレーバーにした恋の歌だと見ればいいのだが、やはりフィクションなので、恋をフレーバーにしたパソコンの歌と解釈しても何ら問題はないはずだ。個人的には、パソコンの歌として聴けばすごく納得する。この解釈は、宇多田ヒカルからの「サイエンスフィクション」というヒントではじめて可能になった。小娘がのぼせ上がった歌を歌って生意気だな、みたいな風潮が当時あったような気がするが、恋の歌に見せかけたパソコンの歌だったとしたら、そんな評価に宇多田ヒカルは笑いが止まらなかっただろう。ここで改めてPVを見てみると、前半はパソコンを前にしている宇多田ヒカルのようだし、後半はパソコンの中のようだ。結構わかりやすい。前半までは、薄暗い部屋で赤い服を着て、なまめかしい女性らしさを感じるのに対し、後半では衣装は白に変わり、照明が強くあたっていることもあって、15歳の少女の幼さが前面に出ている。色々解釈は可能だと思う。作詞作曲歌唱能力に恵まれた骨太な女性アーティストとしての宇多田ヒカルと、肉体的には15歳の少女でしかない宇多田ヒカルという対比はすぐに浮かぶ。
または、現実の自分とネットの中の自分とすれば、98年には誰もピンとこなかっただろうが、誰もがSNSなどネットの居場所を持っている今なら理解できる。この視点で見ると、パソコンが専門家だけでなく一般家庭に広がり始めた98年の時点で、パソコンがもたらす未来を予見していたと言える(MVの監督がだが)。自分がシンプルでなくなり、何か真っ当そうなことを脳内でささやく第2第3の自分が現れることで、やりたいことにまっすぐ向かっていけた幸福とさよならせざるを得なくなる心象風景を「Goodbye Happiness」で歌っていたが、恋人への思いともパソコンへの思いとも見える歌が出来上がったのは、意図してそうなったというより、シンプルに出力した結果なのかなと見ている。
⑨ボーイズ・テクスチャー
ジェンダー中立的な長谷川白紙が、何者にもなりたくなく、かつ同時にあれやこれやの全てになりたかった、といった内容のメッセージを出しているのを読んだ。中立や中道とは、日々自分を相対化し、何かへの偏りを把握し、偏りを無化すべく行動し続けるという生活様式だと思っているが、負担が大きいのではないか。「あなたは自身の転倒した王を勤める」という歌詞があるが、上遠野浩平の『螺旋のエンペロイダー』の幕間に置かれる架空の作家の言葉を思いだした。
心の中に帝国を持つ者は、外部からの侵略を常に恐れているが
真に恐れるべきはその帝国の強大さに自らの魂が呑み込まれてしまうことである
(霧間誠一/虚空の帝国)
また、「seja forte」という言葉を調べると、ポルトガル語で「強くなってください」という意味だという。ツイッターによると、「seja forte」と「call that songwriter」のみ白紙氏の声でないので、外部から「強くあれ」と要請されている。中道を行くには、繰り返し自己の相対化が必要で、相対化するというのは、自分という王国の領地を俯瞰で見て、その中にある王たる自分の位置や姿形を見ることである。社会からは、主に企業体が広告という形で偏らせようとしてくるが、一方で、自己を強く保て、というメッセージもあれこれの手段で送ってくるように思える。つまり金が落ちる程度、かつ、社会に迷惑をかけない程度に偏るように仕向けられている。誰にも迷惑をかけないで自活できる時点で、既に一定の偏りを身に着けてしまっているともいえる。「call that songwriter」はどうか。外部からの要請のようである。おそらくだが、「call that songwriter」は2種類の音声があって、片方は不明者、片方は白紙氏ではないか。つまりこの要請は外部からの要請であると同時に、内部からの再帰的な要請でもある。生きてはたらくことを詩作になぞらえるなら、俯瞰視点を起動することは、生活をパラグラフとして読もうとする試みである。しかし読んだからといって、今を生きる生活者(songwriter)として次に選び取るべきセンテンスが分かるとは限らない。なぜなら、今という瞬間においては、紙も何も無い空中にフレーズを吐き出すことしかできず、いつの間にか出来上がっていたパラグラフを後追いで読んでいるだけだからだ。
⑩ビビデバ
「白紙も正解も間違いも愛す 本当のあたしの理想」という歌詞があり、ボイテクの後に置くにはこれ以上ないと思う。(歌詞を書いたのは星街すいせいではないが。)不安が溜まっている民草を扇動する、一人称「あたし」のアクティビストの役を見事に演じている。そしてその演技が鼻につかないのは、リアル以外の新しいリアルのレイヤーでは、演じることが生命の重要な条件だからだ。ビビデバはMVも大傑作で、演じることが題材となっているのが、核心をついている。VTuberは肉体をもたない。肉体をもたない存在はどうしたら存在できるのか。肉体のある普通の会社員はどうか。実は社会的位置づけを演じている。自分に求められている役割を把握し、その役割に自分を合わせている。役割をどれだけ自分のものとして理解し、演じられるか。役割を体現する強度は、リアルなボディに依存するのではない、と言い切れるかどうかはまだ分からない。星街すいせいの肉声と歌唱力が、リアルとバーチャルをつなぐ最後のへその緒として残されているからだ。私たちが生きるファーストリアルに対するセカンドリアルは、電子界に人間の脳を超えるパラメータが設定可能となったときに開かれる。私たちはいずれ、確固とした境としての肉体を手放すときが来るかもしれない。そのとき私たちは私たち自身を演じることによって、存在性を得られそうだ。つまり、私を私と言い張る以外に、私を後ろ盾する何ものもないのであり、言い張るには踊り続けなければならない。そして言い張りとは、踊らざるを得ない新しいリアルを形どる呪術である。
あとがき
この試みには、欠陥があり、そもそも第一印象で面白いと思えた内容をいくら紐解いても、これまでに面白いと思ったものがあるだけなのだ。まったくランダムに対象を選び、それを客観的に抽象的に聞かないと、自分にとっての新しさは見いだせない。まあ同じ曲を何度も繰り返し聞き、戦いを挑むような生活に楽しみは少しあったので、夏版もやってみよう。