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愛の歌はいつ贈られたか Awesome City Club『ceremony』考

Awesome City Clubの『ceremony』を繰り返し聞いている。この歌には、大切な何かが眠っており、頭で追って考えてみたいと思うのだが、ずっとおしゃれなリズムと歌唱が反復しているせいで、何も展開されてこないので、ここで考えてみることにした。

 

まずなぜこの歌は「ceremony」なのだろう。歌詞を見て見ると、意図的に「ストーリー」「プロローグ」という言葉、「結末」「ラストテイク」「エンドロール」、そして「エンドロールの向こう」が配置されている。これまでによくあったラブストーリーでは、運命の男女が出会って、恋愛のドタバタがあって、結ばれるまでを物語としてきた。せいぜい結婚式までが描かれるのが普通で、結婚式というイメージは、あり得たかもしれない幸福なルートとしての結婚(および生活)を物語の受け手に呼び起こす。

 

『ceremony』では、ロマンスとは程遠い平凡なカップルのささやかな出会いから結婚までが「プロローグ」の1語でまとめられている。彼らにとって結婚式という儀式は、使い古された愛のイメージでしかなく、本当の愛はそこにないという確信を分け持っている。

 

ラブストーリーでいうゴールを迎えてしまった後、ほとんど平らな生活が限りなく続いていくように見え、また実際に続いていく中で、ドラマチックではない愛はどこにあるのか。「結婚式」ではない新しい愛の「儀式」はどこにあるのかが、この歌のテーマではないか。

 

『ceremony』の時間感覚は不思議で、「これまで」と「これから」 が同じレベルで並んでいるようだ。時間の奔流の最中にあるのが、ラブストーリーの主人公たちであるとすれば、時間の流れから一歩引いて、自分たちがどういう状況にあって、人生全体で今どの位置にいるのかを理解しているのが、『ceremony』のカップル像である。

 

よくある恋をして、よくある結婚をし、どこかにもきっとあるのだろう生活を楽しんでいることを自覚している、うっすらとした悲しみすら感じられる。このような感覚の背景には、SNSのある生活が浸透して、他人がどんなことをしているのかが見えやすくなったことも影響していると思う。

 

実はオリジナルなことはどこにもなく、一挙手一投足に、過去の参照元があり、未来における再現可能性を感じてしまう。どこに、私たちが私たちとして生きていく縁(よすが)があるか、切実なアイデンティティーの課題が生活に影を落としている。

 

『35歳の少女』というひどいドラマを取り上げたい。10歳の時に遭遇した事故の後遺症で昏睡し25年後に目覚めた、体は大人、心は子供という逆コナンの少女/女性が、25年の間にぶっ壊れた家族をどうにもできず、登場人物全員信じられないほど傷つき、しまいには母親が心労で死んだあとようやくそれぞれ歩み始めることができるようになったという物語だったのだが、徹底したアンチファミリーストーリー、アンチラブストーリーに振り切ったグルーブ感が面白かった。

 

『35歳の少女』では、一戸建てのリビングのテーブルを家族で囲んですき焼きを食べることが、幸せな家族のイメージとして描かれ、すき焼きを食べれば仲睦まじかった過去の家族に戻れると主人公が信じているシーンがあった。

 

結局、家族4人そろってすき焼きを食べることはできなかったし、仮にすき焼きを食べられていても、家族が元通りになることはなかったことは間違いないし、その元に戻らない感じが一層強化される絶望の食卓になったことだろう。それが分かっているから誰もすき焼きに応じなかった。

 

すき焼きという手間のかかる、特別な食事の儀式は、25年の間に力を失っていたのだ。

 

かつて多くの儀式が生活に組み込まれ、明確な力を持っていたように思える。あれこれ用意して新年を迎えるとか、成人式に緊張感をもって臨むとか、結婚式に輝かしい憧れを感じたりしてきたことがそうだ。

 

でももう、儀式的なことは一切しなくなってしまった。金銭的な問題もあるし、そういうことを大事にする価値観を失いつつある。価値観の変化自体を嘆く思いはない。ただし、これまでにない新しい悲しみは生まれていて、悲しみを癒す新しい思想が求められている。

 

バラバラになってしまいそうな 「これまで」と「これから」を、辛うじてつなぐ愛の歌は、人生の結節点ではなく、何でもない生活のシーンにおいて歌われる。未来の行く末がどうなるか、ほとんど予測できており、退屈に感じてしまいそうにもなるが、他ならない「君」と2人で生活することに、かけがえのない意味を見いだそうとする決意を愛の歌として贈っている。

 

この曲を歌おうとするときの心のはたらき、一瞬の決意こそが現代の「儀式」であり、特定の時間と空間を区切って変質を促すこれまでの儀式とは全く性質が異なる。

 

時間を俯瞰する視点を得てしまった人たちにとって、毎日の生活のいたるところに愛を歌う機会が潜んでおり、どれだけそれらを逃さないでいられるかという緊張感が生活を覆うかもしれない。儀式が一時的に受け持ってきた大きな緊張感を、日常に引き延ばしてもっているかのようであり、かなりしんどいことだろう。

 

しかし、私たちは、そのように生きることを選択しつつあるのだし、せめてこのうっすらとした、根深い悲しみを負って歌おう。ただし真面目ではいけない。どこか軽薄に、おしゃれに歌うことだ。