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生活するために書くブログ

中島みゆき『倶に』に寄せる感想文

倶に走り出そう

倶に走り継ごう

生きる互いの気配がただひとつだけの灯火

 

中島みゆきの『倶に』、昨日のSONGSの特集で初めて聞いた。

 

突き詰めると、人と人は真に分かり合うことはなく、独りで生まれて独りで死ぬ。しかし、まったく同じように独りで生まれて独りで死ぬ人々が、自分と同じ世界で生きていることだけは確かで、独りで生まれて独りで死ぬ人間のあり方はけっして揺るがないけれども、同じ境遇にある人々の存在を感じながら、独りで生まれて独りで死ぬことのできるこの人生は、走り倒すに足る、と肯定してくれているようだ。

 

歌われているように、私たちは他人について、かすかな「気配」しか感じ取れない。すぐそばにいるように、事実だと思って見ている他人は、すべて私の頭の中で成り立っているイメージにすぎない。私たちの目の前には、私たち自身が作り出したスクリーンが拡がっており、私たちは常にスクリーンを見ていて、直に周囲を見ているわけではない。互いのスクリーンを隔てた向こう側に、中島みゆきが「気配」と表現する何かがあり、それがおそらく他人である。ある意味、私たち人間は皆盲目なのであって、他人との関わりは、手探りで進めていかなければならない。

 

『倶に』を聞いて、私はなるほどと思った。こんな暗闇の中を、怖がらないで生きられる人は誰もいない。この世に生まれた者は、必ずもがき苦しんでいる。私が自分だけの苦しみに喘いでいるように感じている間にも、他人の中ではまったく別の苦しみが渦巻いている。この苦しみは私だけのものではない、私たちのものであると考えたとき、逆に、私たちの苦しみが、私のものになったような気がした。私は私の苦しみをできる限り減らしたいけれども、それと同じくらい、私は私たちの苦しみを少しでも減らそうと決意して生きる。「倶に走る」とは、このようなことかと思っている。