『海の若者』 佐藤春夫
若者は海で生れた。
風を孕んだ帆の乳房で育った。
すばらしく巨くなった。
或る日 海へ出て
彼は もう 帰らない。
もしかするとあのどっしりした足どりで
海へ大股に歩み込んだのだ。
とり残された者どもは
泣いて小さな墓をたてた。
佐藤春夫の「海の若者」という詩がとても好きで、この5,6年くらい、時折読み返しては味わっている。
この若者は、単に消極的になって萎れたように海へ呑まれていったのではない。結果的に海によって命を絶たれたとしても、若者の魂は折れていない。魂の拠り所である肉体が滅んでしまったから、そこに形を留められなくなっただけで、魂は滅んでいない。なぜなら彼は、海で生まれ、海に育まれた者だからだ。自然に近い高貴な魂は、卑俗な悩みに捕らわれることがない。青い海に屹立した白く大きな帆のようにぽっかりとそこにあり、命が波に呑まれ、周囲がそれを惜しんだとしても、美しい魂は欠けることなく海に偏在している。
私たちのような「取り残された者ども」は、素晴らしい人格がこの世から失われたことを惜しむのだが、若者自身は、自らの人格というものを永久に捉えることがなかった。一歩引いて考えるという相対的な視点と一切縁がない。海と自分とを分け隔てるような構造を自身に持たない。若者の魂は、何によっても汚されなかった。死さえも彼を揺るがさない。
貧しい魂をもつ哀れな私たちは、せいぜい砂浜から海を眺め、神々の世界へ悠々と入っていった若者に深い嫉妬を抱きながら地上に小さな墓を立て、人として生きていた証を少しでも残そうとするのだが、彼は生死を問わず常に自由であり続ける。
また彼は、海の大きな力に砕かれるように死んだのではない。海は高貴な彼の魂を深く愛し、肉を優しく溶かして一つになったのだ。彼の魂は海と対等にあり、人間からの愛をけして受け付けない。幾人の女や男が彼を愛し、全身全霊を捧げたとしても、深く海と繋がった彼の魂に、彼らの愛が届くことはない。彼を愛してしまった彼らこそ、彼の瞳が海しか映さないことに絶望し、時に海に砕かれ、呑まれていった。
かつて彼だけがただ一人、海を眺めていた。海もまた彼だけを眼差した。彼と海はほんの一時分かれて互いを見つめ合い、すぐに一つに戻る定めにあった。彼はそのことを知っていた。素晴らしく大きな体を粗暴に扱い、血を流してしまっても何の問題もなかった。血が沸騰する度、彼の体は赤く輝き、周囲の者は彼の美しさに眼を伏せた。彼は命ある間孤独だったが、その苦しみを言葉にできるほど賢く成り下がるより前に、海へ出て行った。