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生活するために書くブログ

上遠野浩平『冥王と獣のダンス』

たぶん、死神シリーズ外として刊行された初の作品。順番としては『エンブリオ』の後だが、『機械仕掛けの蛇奇使い』と同様、プロトタイプがあるらしい。それは『笑わない』刊行より前ということで、もしかしたら上遠野浩平の原点にあたる作品なのかもしれない。

今一つ地味だが特殊な能力をもつ少年と、綺麗だが壊れかけた少女との出会い。『蛇』では姫と皇帝は既に出会っていて、そこからの話なのに対して、本作では出会いがスタート地点だ。そしてゴールがどうだったかといえば、なんとも中途半端に終わってしまった。出会った彼らは以後どうなっていくのか、どうもならないまま彼は○○○○○○のか。ダンス、すなわち戦争の終わる気配もない。

彼らには対話すらない。ようやく二人きりになったと思えば会話はすれ違い、あげく互いに押し黙る。そして肝心なことが言葉にならないうちにダンスは始まり、終息に向かう。

始まりもしなければ終わりもしない。戯れにダンスを踊っているだけだったというならば、こんなに人を食った話はない。なんとなく、劇中の彼の彼女に対するのと同じ怒りを覚える。

○○か○○○か分からないようになっているのは、まだ泡が昇ってくる前だからなのか。ソマンジーなんぞには決定できない大事なことであれ、しかし決定しないのは無責任ではないか。死神のジャッジを待たねばならない理由は何だ。

読者に任されているようでいて、ダンスは終わらないようだときた。彼や兄弟の努力によってその予測は変わりうるのか、本作は言及していない。『蛇』によれば、本作の舞台である文明の崩壊は詠韻技術の発見を待たねばならないらしい。それが「奇蹟」なのかは分からないから、既に崩壊は始まっていて、本作はその序章なのか、それともまるっきり戦争文明真っ只中なのかについても判断できない。

そっか。

何でこんなに苛苛してるのかわかった。彼女が幸せになるかならないか判断できないからだ。『蛇』では彼と彼女の関係は歪んだ形ではあるものの、最善のハッピーエンドだった(と思う)からこそ、僕は『蛇』を名作と呼んだのだった。つまりは、本作の彼女に幸せになってもらいたいのだ。

しかし、幸せって何ぞと聞かれても、僕はひとつも答えを持たない。問題は、幸せや不幸せ(っぽいこと)が本作に明示されていないことだ。何が彼女にとっての幸不幸か何てさっぱり分からないが、出会っちゃったんだから、どちらでもないってそれはあり得ないことで、何かに傾倒した瞬間にもうバランスの保たれた状態(というか停滞)は失われ、どこかに向かわざるを得ない。ゆえに上遠野浩平には、その行く先も見せて欲しかった。

停滞から動き出したように見せかけて、実は停滞したままでしたみたいな。でもこういうの好きなんだよなあ。嫌いだなんてとても言えないや。



戦争といえば、最近読んだ三崎亜記の『となり町戦争』が思い出される。あ、まだ別章読んでない。あとは村上龍の『海の向こうで戦争が始まる』とか西島大介の『凹村戦争』。終わらない戦争ということなら森博嗣の『スカイ・クロラ』か。

この程度のフィクションしか知らない。戦争ってなんだろう。まっっったく分からない。分かろうとしてないだけ?それとも形を変えて今も身近に存在しているのだろうか?

ぶっちゃけ、巡り巡ってどうでもいい。本作はそんな感じ。