転生して、別世界でチート能力を使って愉快に暮らすような物語は、現実逃避的ではないか、という批判未満の感情が増田あたりに渦巻いているのを感じた。私からすると、その見方はもったいないなと直感していて、異世界生活系物語の魅力はまだ誰にも掘り起こされていないのではないか、ここで密かに一人で遊んでやろう、という気持ちが湧いてくる。
なぜそのような物語が作られやすいかと言えば、異世界生活系物語がゲーム経験を主題にしているからだ。すべてのゲームは、日常から切り離されたゲーム筐体内の時間の中で、何かを得続けながら、有限のリソースが定めるゴールへ進んでいく、という構造を持っている。プログラムによって作られる電子のゲームはすべて、何らかの構造を必ず有し、電子的秩序という神に完全に支配されている。物理的なものを使用したゲームでは、ルールが非常に強い力を持っており、これなくしてはゲームはゲームたりえないのだが、プレイヤー側でルールに手を加えることもできる柔軟さがあり、一つのゲームに多様なルールが存在することがままある。将棋など競技化するようなゲームでは、各個が異なるルールをもっていては試合にならないので、厳密にひとつのルールに絞る力がはたらく。e-sportsを展開しようとする団体も、ルールの明確化が重要な仕事になる。
電子ゲームには、物理ゲームのように締めたり緩めたりするゆとりがない。ただプログラムが不可侵の神として存在し、プレイヤーがその外側に抜け出ることは絶対にできない。人気のあるゲームでは、ゲームの枠組みの不備であるバグを突き、通常では不可能な動作をさせる試みが流行することがあるが、プログラムという神への反逆の試みのひとつとして、見るものに爽快感を与えるから後を絶たないのだろう。しかし、バグであっても、プログラム的にその動作が可能である限り、プログラムの支配下に置かれていることに変わりはない。電子ゲーム内で主要なキャラクタが死亡したり、持っているアイテムを失ったりすることがあっても、それはゲーム内で完結してデザインされた喪失であって、現実世界の喪失とは異なる。いわば、失うということを得るイベントが発生したに過ぎない。近年の電子ゲームはメモリ量が大幅に増え、ゲームでできるアクションやイベントが非常に多くなっているが、プログラムという神の支配があるという本質に変わりはない。
私たちはゲーム経験の中で、このことを常に感じ取ってきた、と想像する。どんなにのめり込んでも、「こんなゲームにマジになっちゃってどうするの」という、神に対する敗北の感情を拭い去ることができない。勝っても負けても箱に住む神の掌の上であり、電子ゲームのプレイヤーはすべて敗者である。私たちは理不尽に蹂躙されながらもゲームを愛しつづけてきた。そういう人々が現代日本に一定数存在する。そこにあまり自覚されない怒りや悲しみがあった。愛すべき暴君としてのゲームへの批判は、ゲームによってではなく、小説や物語の形式において行われ始めている、というのが、私が考える異世界生活系物語の起源である。
ゲーム的世界において、本当に失うことはできないのか、死ぬことはあるのかどうかということが、無自覚に模索されてきた。『ソードアートオンライン』では、ゲーム世界にログインし、条件を満たせばログアウトすることができた。ゲーム世界で死亡したと判定された場合、現実世界の肉体も死に至るという設定が出色で、ヒットとなった。ゲームをそのまま物語に持ち込んだ格好と言える。まだ「ゲーム世界」であって、「ゲーム的世界」ではない。これが2010年代前半のこと。後半になるに従って、徐々に広がりを見せてきたのが、『転生したらスライムだった件』のような、一回現世で死亡した後、「異世界」に「転生」し、新しい姿や能力を得て、「生活」していく、そんな物語の形式だ。
結局ゲームの話になってしまったので、次こそは異世界生活系物語の「生活」について考える。