今まで、この気持ちをいかにして回文に織り込むかばかり考えてきた。そのために言葉をこねくり回してきた。イライラしながら自分の都合よくいくときを待ち、望み通りになった瞬間喜び勇んで、さも当然のように、傲慢な態度でそれらを回文に組み込む。こんなんでよく「言葉の力を信じてる」なんて言えたものだ。
自らの感情を回文に反映させようとする態度こそエゴで、言葉の力を信用していない証拠じゃないか。感情的になるな。僕の感情に合った言葉を探すのではない。どちらかといえば言葉に合った感情を僕が探すというべきだ。いや、結局僕の感情なんてものは入り込む余地がない状態で本来あるべきなのだろう。
芸術とは表現ではない?表に現す(表す)必要があるのは、それが裏にあるからであり、果たして芸術に表裏はあるのか。あるかもしれないが、おそらく表裏一体。回文と感情が対応して存在していてはならない。混ぜるというのは違う。混ぜる行為には物体が2つあることが予め明らかであるから。誕生しない。2つが2つとなってこの世に生まれてくる前に回文を終えねばならない。それは芸術への崇拝と自分への慈愛を捨て去ること。そしてその後に何も残らないこと。
まず、辞書を開け。日本語の辞書は日本人をあらゆる角度から説明してくれるに違いない。英語の辞書は日本人がもたないものをもたらしてくれるだろう。英英辞書とか読めねー。
言葉に、それ自身が担当している意味の範囲外にまで及ぶ力があることは間違いない。しかしそれを手に取ることは許されるのか?すなわち「言葉」を「信じる」という行為は完成するのか。信じるとはなんだ。信頼に足るものとして認定したことを誰かに表明している?あくまで他者の存在が「信じる」ことに信憑性を与える。信じていることを僕は信じることができるのか?いかなるときもだ。たった一人の世界に立っていることを見出だしたときに「信じる」とどれだけ胸を張って言えるのか。言った分だけの嘘。「信じる」ことが信じられない状況にあって、「信じる」と叫ぶのは愚かだ。たとえ始まりが神聖だとしても、「信じる」という言葉が穢していく。よって「信じる」ことは、それが本当に真実の信仰を目指す場合に限り、自分にさえ表明できない構造をしている。嘘を排斥するならば、「信じる」はあってはならない。もし文字情報上で「それ」を表現したいなら、「それ」さえも嘘である。なぜなら指示語であるから。指示する先に何物かがあるという前提において機能する
言葉であるからだ。ならば、「 」とでもする以外にない。「僕は言葉を 。」言葉を越えている。言葉ではないものの隣に「言葉」そのものが鎮座するこの一文はなんとも不自然である。しかし言葉とは自然に対する不自然だ。