インドのマンデリンなんとか:1杯
先週末地元のマイクロロースターで買った豆。かなりの深煎りで真っ黒。豆の香りはほぼなくなったが、油分は少し残っている。
今日は量りで15gきっちり挽いて臨んだのに、お湯を入れながらスマホでコーヒーの記事を閲覧するという暴挙のせいで、湯量管理がガバガバになった。なんとなく少な目の量で抽出終了の声がドリッパーから聞こえた気がしたので引き上げる。豆の量固定したのに、お湯の量気分で変えてたら意味ない。
豆を買うときに試飲させてもらいながら聞かされたマスターの話によれば、深煎りするときは、焙煎の中途で一旦ロースターから出してガス抜きをし、もう一度投入して最後までローストするのだという。コーヒー内のガスを熱しすぎると、ドリップした時のえぐみの元になるから、あえてそうしているそうだ。
コーヒーの記事を見ていると、このガスの話をよく目にするのだが、いまだその存在を信じきれていない。都市に宿るゴーストとかそんなレベルの話ぐらいに捉えており、なんか知らないけどそういうゴーストがコーヒー全体のクオリティを左右する、オカルトみたいなものだと考えている。そんなゴーストをコントロールするとは、マスターはさながら魔術師か何かなのかな、と思いつつ、えぐみのない超苦うまいコーヒーを試飲(ミニカップとかでなく、まるごと1杯)していた。
今日の一杯は、湯量管理が乱暴だっただけでなく、お湯の温度が少し高すぎたようで、酸味を少し感じた。単にローストから一定の時間経過があったからかもしれないが、深煎り豆は酸味が出にくいはずなので、自分の淹れ方の問題だと思う。ただ、豆そのもののポテンシャルが高いからか、総合的にとてもおいしく頂くことができた。豆とマスターへの感謝が止まらない。
今日はなんとなく冬の初めのような空気感で、静かに落ち着いている。雨で空気中の塵が落ちて、物理的に音の環境がクリアになっているからかもしれない。肌感覚を瞬時に上に書いたようなところまで変換して、今日は静かだと思い込もうとしたとも考えられる。例えば書道家が書を書き始める前に洗い立ての仕事着を着込むように、これからコーヒーを挽いて飲むぞと襟を正し、対象に向かっていく自分と周囲の空間を捉え直すささやかな儀式が、無意識のうちに行われたということだ。
ここまでくると、自分も十分オカルト側の人間だな。○○道と呼ばれるような、モノと人間の精神の関わりの美学への憧れがある。茶道をもつ日本には、コーヒー道というものがすんなり立ち上がる素地があると思う。オカルトと呼ばれる得るような曖昧なものを、曖昧なまま宙づりにして、モノと関わり続けた事実だけを積み上げていく。
ただしコーヒー豆のガスは本当にあるみたいなので、オカルトではない。