湖畔の左へ

生活するために書くブログ

ゆっくりやさしく

現在私がリーダーをしているサークルのスーパーバイザー的な役割にある彼からメールで、「ゆっくりでよい」と言われた。僕はそんなに急いているように見えたのか。たしかにちょっと前までの僕は人間生まれたからには何をかせんといかんという焦りから、読めもしない本をたくさん購入してきたり、みんな普通にやっている単位を切る行為に対して妙に切実な、何か大事なものを失ってしまうかのような気持ちになったりした。最善を尽くさなければ、ありえた可能性を手放してしまうかもしれないという恐れが僕に、教授の発する一言一句を可能な限りすべてノートに書き取らせたりもした。しかしその似非完璧主義が、だらしなく無生産に楽して生きたいという願望を隠すための方便だったと分かったので、僕は前ほど急がなくなったつもりでいた。

「急いで納得しようとせず、気長に行こう」とも言われた。今メールを再び読んで目に止まった箇所だ。「納得」に納得した。そもそも、僕らのサークルの特殊性が引き起こしているどうもならない歪んだ現状と、その改善は無理でも維持くらいの努力はできるものをむしろ歪みを助長する結果となった僕の陰険な諦念と怠惰とを冷静に報告したら返ってきた答えであるが、今僕は、中身がなんであれ返答さえあればよいという気持ちでいる。メンバーに対して返信を求めても、約4分の1からしか返ってこないからだ。もちろん、僕のメールに返答する義務は彼らになく、また僕がそんな彼らを詰問する権利もない(これも僕のサークルの特殊性による。)。が、だからといって僕が黙っていたのではサークルは成り立たないので、私はメンバーひとりひとりに個別に連絡することにする。そういう風な「理解」を彼に示したところ、それは「納得」にすぎないと言われたようで、改めて自分がいかに怒っているか気付いた。努めて冷静に、僕が置かれている理不尽な状況を分析することで自己憐憫に陥らないようにしたが、その過程で捨て置かれた怒りの感情を彼は見つけ、僕に返したのだろう。おかげで僕は救われた。

いつもやさしくありたいと思う。だから怒りを表明することなどもっての他だとして退けてきた。それもまた僕の性急さからくるもので、賢いやり方でないことは分かっている。しかし今回僕が彼に迂遠な形で怒りを表明したのは、遠藤周作の『沈黙』の影響だ。本の内容と僕の現状は面白いくらい正反対といっていいのだが、神の沈黙をメンバーの沈黙に重ねてしまったのだった。「あとで返信します」とか「サークルやめます」でも何でもいいから返信がほしいし、友人知人から返信を求められたら、それがストーカー的なものでもない限りは返信するのが普通ではないのか。いや「普通」も霞むくらいに、呼吸をするくらい当然の、「あたりまえ」のことではないのか。なぜ黙っていられるのか。

そうか。怒りというより、違和感である。僕がもっているものとは異なる、別種の論理で彼らは動いている感じがする。外国に一人取り残されたような、そんな不安を、彼の「ゆっくりでよい」というやさしさは溶かしてくれた。