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生活するために書くブログ

表現の不自由について

表現の不自由展、とても面白い。その中身は実はほぼ知らないが、ネットの隙間からのぞき見ていると、表現をめぐって現代日本の姿があぶりだされていき、表現の不自由そのものを現実に召喚する魔法陣のごとき謎の力を発揮している。

 

表現はすべて暴力に還元できるのであって、この世に物体として存在している私たちは、本質的に暴力と名指され得るような生命力の発露を抑えないではいられない。というか抑える抑えないという次元ですらなく、命がそういうものなのだ。表現、ひいては生きることは「力」であって、そこには本来何の色もない。力を、暴力と断ずるには、自然に発露する力とは異なる力が必要であり、それこそがより暴力と呼ばれるにふさわしい。近年「ヘイト」という、ヘイト対象者への侵襲的な言説を、暴力に準ずる悪行として糾弾するための概念に業が集まりつつあり、ヘイトスピーチを禁止する条例を制定しようとする自治体が現れるところまで来ている。法律を作り、破った者に罰金刑を科すことができるように、社会に仕組みを作るということだが、その仕組みを後ろ支えする正しさがあるわけではない。正しさそのものを新しく打ち立てようとしているだけだ。何が正しいのかを決めること、また、作られた正しさを押し付けることができる仕組み(警察、司法、行政)とは、暴力そのものではないか?ただ、そのとき力をもっている統治機関が行使しているから、正当な力、権力ということになっているだけだ。

 

暴力うんぬんを言うのは、名古屋市長が、表現の不自由展での作品を、「暴力」だと主張しているのを見たためで、いやいや、表現を不自由にしている暴力を間接的に表すのが趣旨の展示に対して、暴力のレッテルを貼ろうとする体制側のロックさ加減半端ないなと思った。「ヘイト」という概念が、「暴力」の適用範囲を広げている。私たち民草は、ヘイトにまゆを顰めるのをぐっとこらえ、にこやかに意見を交わす大人にならないといけないのではないか、さもないと、体制側に加害者として認定され、「正しい」プロセスに則って処理されそうだ。「ポリコレ」、「コンプライアンス」、似たような言葉が、日本社会に怪しい空気を醸成している。または逆で、子どものようにのべつ幕なしに不快感を訴え、周囲に力を発散するものが増えた結果だろうか。

 

上級国民とか、体制側の権力の強まりを揶揄する言葉が出てくる一方で、市民の間にも、シンプルに力を振りかざす人が増えてないか?それがおじいさんであれば暴力老人と呼ばれ、親であればモンペ、歩きスマホにタックルするおじさんは犯罪者として逮捕された。振りかざす主体が国家なら、幸運にも権力と呼ばれ、日本国民の大部分が従うが、個人がパワーを行使すれば、相応に燃えたり、電凸されたりする。そのとき錦の御旗として持ち出される「ヘイト」、「ポリコレ」、「コンプラ」、「ハラスメント」といった概念は、体制の外にいる少し頭のいい人間がナチュラルパワーに対抗するためのパワーとして利用される。あたかも、正しさがここにござい、という顔でそれら概念があることを暗に示したりして、相手が萎縮することを狙っている。ナチュラルパワーの民が自発的に黙るように、ヘイトパワーの民は、世に、何がヘイトであるかを触れ回る。この両者の関係は、国民と国家の関係のミニチュアである。信じる人が多くなるほど、それら概念の力は増す。極限までその力が増し、承認して信じることにした太古の昔の経緯が霞んで見えなくなって正しさそのものとまで思われているのが法律である。

 

体制側としては、「ヘイト」のような概念を歓迎するのではないか。あとはそれが体制側の思っていることと一致していればよい。一致していなければ、「ヘイト」という概念を逆につかって、糾弾することもできる。「ヘイト」方面の道筋は、権力の濫用に帰結してしまう。腹の立つもの、意見の異なるものに出会っても、正しさを盾に攻撃するのはやめよう。だからと言って、必ず融和しなければいけないというわけではない。そのような態度もまた、何かしら作られた正しさのにおいがする。コストと手間のかかることだが、対立する者同士が双方向にコミュニケ―ションし、すり合わせて、互いに損をするようにすべきだ。対立をきっかけに、いっそ変化してしまおう。

 

私たち人間は、生きることで、周囲に力を発揮せざるをえないが、コミュニティを形成して互いが便利になるように生活するようにしているからには、力を野放図に発揮させず、ブレーキを作動させられるようにもしておかなければならない。そういう人間が為す表現にも、当然、不自由さがつきまとう。その表現が過激であるほど、不自由に扱われてしかるべきだろう。ただし不自由は、力を発揮する側の自制によるのであって、周囲から強制されるものではない。たいていの場合、強制力は自制という形に持っていこうとするので、ここでいう自制がどういうものなのか分かりにくくなっているが、ある表現が外的な(正しいと信じられている)圧力による不自由を被るなら、それら事象を括弧に入れ、相対化して分析する姿勢を見せれば、外からの力を逆に暴力として捉え返すことができる。今回の表現の不自由展は、そのような流れで、各所の暴力をあぶり出すことに成功してしまったが、たぶん狙ってやったのではないと思われるので、展示も市長も両方滑稽に見えるのだった。