湖畔の左へ

生活するために書くブログ

暗闇

京アニ放火への悲しみが尽きない。自分の魂の一部が損なわれたようだ。彼らが作るはずだった未来、かなり高い確率でこれから生まれるはずだったまったく未知の作品たちが、幻のように掻き消えてしまった。物心ついてから、自分に近い人が死んだことがないが、もしその時が来たら、これよりもっと辛い思いをすることになると思うと恐ろしい。


相模原の障害者殺傷事件や、川崎の通り魔事件が起きたときは大して胸が痛まなかったのに、今回だけ辛く感じるのは、命の価値に差をつけているからだろう。正直に言って、東日本大震災のときよりも心にダメージがある。東北の二万の市民よりも、アニメーター35人の方を重く見ている冷酷な自分に、苦い思いをしている。しかし少年時代から京アニの作品を見てきた自分には、作品に描き込まれたさまざまな情熱の向こう側にいる見ず知らずのアニメーターたちが、非常に尊い存在に思える。二万の市民はどうか?二万人のうちの誰かとの間で何かが起こり得たかもしれないと想像できない。アニメは、手に持っている端末から見られるだろうことが、ごく簡単に想像できる。この差が、命の軽重を測る物差しになっている。人、物、事の可能性に対する想像力がない。自分の周囲5メートル程度のことにしか興味をもてない、価値を見いだせないような、つまらない人間には、市民は無価値に思え、アニメーターというだけで価値があるように感じてしまう。これは自動的にそうなっているだけだ。アニメーター=価値のある人、という確固とした式をもっていて、そこに今回の事件がインプットされ、出力された結果が、この深い悲しみなのだ。悲しみなどない。あるのはアニメーターを無条件に良しとする価値判断だけだ。自分が価値を感じている物が、失われたから悲しい。失われたことそのものに、悲しみが差し挟まる余地はない。二万の市民、通り魔に殺された子どもと男性、職員に殺された障害者たちの死に心が痛まないのは、それらの中にひとつも、価値があると判断した物がないからだ。この世のすべてのものには価値があり、私たちは目に映る何かが失われる度、深い悲しみに襲われうる。しかしそれでは自分自身の生がままならないからといって、無意識に取捨選択し始める。何かを無慈悲に切り捨てることで、私たちはようやく生きていられる。
 
そんなどうしようもない私たち市民が大した価値のない生活を送る一方で、京アニは創作活動を続け、世の中に新しい価値を産み出してきた。新しい価値の誕生を、既にこの世に存在しているあらゆる物事に影響を与え、無数の可能性へ繋がる(または繋がってしまう)砂粒サイズのプラットホームができたようなものだとすると、今回、それら無数の可能性の中からひとつの場所にたどり着いた。すべての道は平等に開かれており、いつも美しい場所にたどり着くとは限らないと、心に留め置くことはできても、実際にこのようなことが起きると、こんなことはあり得ない、本来あり得なかったことが、不自然な力のはたらきで起きてしまったと、何ものかの誤りを見出だしたくなる。複雑極まりないこの世の物事の生起の一部をばっさりと切り捨て、できるだけシンプルに分かりやすくした方が、これからも自分の命を生きねばならない私たちにとっては楽だ。
 
今回の火は、何かの可能性に繋がりうるだろうか。あの暴力から何かを産み出せるか?可能性の束を燃やした火と、命を踏みつけにして、新しい価値を考える仕事が、私たちの前に立ちはだかっており、鎮魂の祈祷文を彫ってもいいし、像を象ってもいい。自分の命を精一杯生きていて、さらに新しい価値を産み出そうとすることは尊い。ありがたい、本来あり得ないことだ。何も産み出さず、一人で生きて一人で死んだとして、責められはしない。しかし、殺すもの、壊すものは同士とは呼べない。できる限り避けたい。いずれ死に、壊れるものに、あえて働きかけ、死と破壊を早める行いはまったくの無駄であり、無駄なことをあえてする利己心のうごめきに辟易する。肉体に突き動かされ、心を肉体に明け渡してしまった者が振るう暴力に対抗し、私たちは生きよう。ただ一生懸命生きよう。
 
それぞれの暗闇で、一人ひとりが一寸先の光へ向かわねばならない。光など結局見いだせないかもしれないが、無限の暗闇の中へ一歩踏み出さなければならない。数多くのものを切り捨てながら進まざるを得ないのが人間という生き物の定めだが、今遥か彼方で同じように暗闇を行く人が震わすわずかな空気の流れをできる限り感じ取りながら歩いていこう。