異世界生活系物語のことを常日頃考えている。異世界というバッファを設けて本当に語りたい私たちの「生活」とは何なのか。自然に入り込むことのできる懐の深い物語群の力が弱まった現代にあって、私たちは、あえて物語ろうと努力し、不格好に前に進んでいかねばならず、後ろからどんどん足場が崩れて、前方は闇に包まれていたとしても、向かう先に光明があることを確信し、取り返しのつかない一歩を刻み続ける以外に、この苦しい毎日を生きていくことができない。残酷な世界で、窮地に陥っても、誰も救ってはくれない。各々が毎日必死に生きていて、他を慮るゆとりがないからだ。だからこそ、自身の苦労を顧みず、周囲の人を助け、前へ前へと背中を押してくれるような存在が、新しいヒーロー像となる。
『世話焼きキツネの仙狐さん』は、ひょっとすると、異世界生活系物語の最先端に位置しているかもしれない。転生というギミックは用いられず、異世界者である「仙狐さん」が、自身の判断で、主人公側の世界にやってくる、という導入になっており、無尽蔵かと思われるほどの心的リソースを割き、主人公を毎日の闇から救い出そうと頑張っている。私は仙狐さんを、現代の新しいヒーローだと思っている。明確な悪者のいない曖昧に閉塞したループから連れ出す力がある。無味乾燥な日常のループが苦しいのは、誰のせいでもない。どうしてこうなってしまったか、みんなよくわからないままはまり込んでしまっている。簡単には何かのせいにできないくらい複雑な要因により、私たちの生活は暗く、力がない。既に力を喪っている状態から、自力で奮起して、日々を打開することは難しい。スポイルされやすい環境とは異なる世界から、私たちの近くで力を与えてくれる存在が現れることが望まれ、自然と物語となって結実した例のひとつが『仙狐さん』だ。
『仙狐さん』では、主人公の方が異世界へシフトするのではなく、異世界側が主人公側の世界に重なるようにして現れてくる。『仙狐さん』には、異世界生活系物語によく見られる転生というものがない。転生についてはこれまで考えてきた通り、世界同士を結ぶ際のおまじないに過ぎないもので、異世界生活系物語にとって必須ではない。世界同士は、夢のように脈絡なくつながってしまってもよく、転生というお約束は、物語をぎこちなくさせていると思う。例えば元いた世界で死なずに転生した場合、元居た世界に帰るかどうか、帰るとして、異世界の住人との関係はどうするかが、物語的に問われることになる。まだまだ新しい作品が多い異世界生活系物語界隈だが、いくつかの作品で、この課題が持ち上がってきているようだ。しかし、これはそもそも語り始めに転生という道具を安易に利用したことから来るものだ。異世界生活系物語は転生を用いなくても語り始められる。異世界への扉は、代償なく開いてしまっていい。世界同士はもっと手軽に行き来できるようにして、その内のどれかの世界、または複数の世界で「生活する」ことに、物語の力を傾けていくべきだ。世界間を移動するというイベントに因果関係の補助線を引くために「転生」というギミックが半ば自動的に持ち込まれてくるのだろうが、移動という筋を強化したところで、「生活」の語りに直結しない。移動すること自体に重きを置いた、『キノの旅』を異世界生活の文脈で再解釈したような作品ならまだしも、異世界での「生活」を描写するにあたって、転生という仕組みに関わることに紙幅が割かれてしまうのはもったいない。
「生活」とは何かについて考えるために、「食事」を取り上げたい。
『仙狐さん』では、甘やかしの基本として、朝昼晩の食事が頻繁に描かれる。偏食個食の人が増える一方、毎日ご飯を作ることがどれほど尊く、ありがたいことなのか、見直されている雰囲気がある。『甘々と稲妻』など、料理や食事をメインテーマとした作品は、異世界転生の作品が多数生まれるのに並行して増えているように感じる。異世界生活系物語と、お料理系物語は、「生活系物語」という大きなカテゴリーに分類できるのではないだろうか。「生活系物語」の配下に、「異世界生活系物語」と「お料理系物語」があり、それらが物語る対象としているのが、「生活」だという点で両者は物語として同じ方向を向いている。『ダンジョン飯』のような、「異世界生活系物語」と「お料理系物語」のハイブリッド型物語が受け入れられているのがその証拠と言える。日常系の代表作のひとつである『ひだまりスケッチ』だが、料理シーンが比較的多く、作者がキャラクターたちの生活を表現しようとしていることがうかがえる。しかし、「ひだまり荘」という空間と、4コマという形式の親和性が高すぎるため、日常の無限回廊に際限なく吸い込まれている。今後学校を卒業したとしても、ひだまり荘からは離れられないのではないか。キャラクターの内面世界の大部分が「ひだまり荘」に支配されたまま、変わっていかないような気がする。それこそ、ひだまり荘を建て壊さない限り、キャラクターは永久に日常の虜だ。
いつからそうなったのかはよくわからないが、異世界生活系物語では、ゲーム的な魔物が必ず描かれ、登場人物たちによって捕らえられ、調理される。異世界の生活の風景として、そのような営みが頻繁に描写される。『ありふれた職業で世界最強』という、異世界生活系のテンプレートのような作品では、仲間に陥れられ追い詰められた主人公が、魔物を倒し、その肉を食べる様が描かれている。これはさながら、主人公が「生活者」となるための儀式であり、この儀式を経た結果、主人公は片腕を失い、髪が白くなってしまった。代わりに、主人公は異世界で生き残る力を得ることができたのだった。分かりやすいイニシエーションであり、食事の儀式性を恐らく意図せず物語っている。(ちゃんと考えてのことだったら謝る。)本来、いただきます、から始まる食事はミニマムな儀式であり、生活の節々で命との対話の時間をもつことで、栄養を摂取するという生理面での必要を満たすと同時に、肉としての自分の輪郭をなぞっている。私たちはどんな存在なのかという大きな疑問について、日々食べているものにその答えを見いだすこともできる。
もしかしたらだが、食事の再評価は、俗に言う車輪の再発明ということになるのかもしれないが、現代においてなされようとしていることだというただ一点だけで、非常に価値あるものだと思う。生活とは何かを考えることは、私たちの命とは何か、本当に尊いものは何かといった課題を考えることに等しい。生活系物語が描こうとしているのは、生活の実態ではなく、生活が形作られる瞬間瞬間に絶え間なく閃く輝きだ。理由とか結果といったものを次元の彼方から見下ろすような光。それは私たち一人ひとりの存在そのもののことであり、改めて、生きて動いている自分自身が奇跡の賜物であると、再評価してもいいのではないか。日常のループに疲れた私たちは、倦怠や惰性を破壊する力を持っていることを忘れているだけなのだと思う。思い出しさえすればよく、あとは勝手に一歩踏み出すことになってしまうはずだ。踏み出した結果、なお濃い闇に身を差し入れることになったとしても、光の閃かし方を思い出した者にはあまり関係ないことだ。生活系物語は、人に光を思い出させる何かを宿している。今、生活系物語はゲーム的世界で展開されてばかりだが、それは、コンテンツとしてお金になりやすいからかもしれない。ゲーム的世界でなくとも、生活系物語は求められている気がして、いや、それは嘘で、自分が求めているのだった。もう自分で生活系物語を書いた方がよくないかという気がしてきた。こうして知った風にごにょごにょ書いているくらいなら、実際に書いてみて、その難しさを理解すれば、生活系物語に抱いている過度な期待を収めることができるだろう。それもまた生活だと言える。