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鬼滅は説明過多との批判に、説明過多を肯定する形で反論する

鬼滅は説明過多との批判に、説明過多を肯定する形で反論する。

説明過多という観点で違和感を感じたことはある。特に劇場版のCMで炭治郎が「攻撃されている!」と叫ぶシーン。観てる側は攻撃されていると分かっているのに、キャラクターがあえて叫ぶ必要なくない?と思うのは分からなくもない。

でも、単に攻撃されている状況があるのと、「攻撃されている」と口に出しているのとでは、後者の方が物語内でキャラクターが次のアクションへ開かれている。言い換えると、キャラが生き生きして見える。線と文字で構成された情報の束でしかないはずのフィクションに、認識し、判断し、行動する知性が浮かび上がってくる。

どんな媒体でも情報の取捨選択があって、私たちが感じているリアルをそのまま再現しようとすれば、膨大な情報量になる。(たぶんそのうち全部計算できるようになる。)漫画が伝達できる情報の量は少ない。なにしろ1ページに数コマの絵と、10数行程度のセリフと文章しか使えないので、どうしても多くの情報を取りこぼしてしまう。作者は作品について、さまざまな思いをもっていて、それらは「設定」と呼ばれるが、鬼滅の場合、コミックスで度々挟まれるよもやま話の文章量から、設定の多さが伺える。きっとコミックスに紹介された内容よりはるかに多くの考えが作者にはあり、漫画として表現されたのはその一部に過ぎないのだろう。

であるときに、できるだけ説明を多く入れることは、作者の物語に対する誠実さの現れではないだろうか。どんなに言葉を尽くしても、一人の人を説明しきることはできない。キャラクターをあくまで人間存在に近い水準で遇しようとするなら、限られたスペースで最大限に語ろうとするのではないか。キャラクターを、設定の集積(注1)や傀儡(注2)や舞台装置(注3)としてでなく、きっぱりと虚構の人間として存在させようと決意するのなら、説き起こし語りきることを責務として引き受けるのが、作者が走らねばならない道であると私は考えるし、鬼滅の作者はその道を走り抜いたと思う。鬼滅がヒットした理由の一端がそこにある。

説明が多いと、読者がキャラクターに自身を投影して読むのが難しくなりそうだ。説明が多いほど、キャラクターは誰でもない、その作品内の独立した個性として立ち上がってくるからだ。説明が多いことによる違和感とは、要するに、虚構の手触りなのだと思う。フィクションであると分かっていても、本当に存在していると感じてしまいたくなるような、確固とした存在の立脚点を見出した時に、その存在を認めてしまえるかどうかが、鬼滅にはまるかはまらないかの分かれ道になるのだ。




1.たとえば日常系アニメ(サザエさんのんのんびよりなど)のキャラクターは、止まった時間の中で、固定された性格をもたされ、永久に終わらないループ世界内にある。

2.たとえば絶望先生こち亀両津のように、作者の代弁者としての性格を持たされているキャラクター。

3.たとえばRPGの主人公のように、話を構成するロールとしてキャラクターが設けられ、配置されている場合。物語の傀儡。