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生活するために書くブログ

ただ鳴くもの、ただ歩くもの

今週のお題「秋の歌」

毎日の通勤で通る道の際に雑草が生えていて、側を歩く度に、こんな草なんか抜き去ってしまえばすっきりしていいのになあと思っていたのだが、ある秋の晩、その道を歩いていたとき、鈴虫のような虫の声が、明らかに雑草の中から聞こえてきた。

自分の思う通り、雑草をすべて抜き去っていれば、このように虫が居着いて鳴くこともなかったのだと、少し恥じ入るような気持ちがして、また、そんな自分の気持ちとはお構い無しに鳴く虫の有り様が、身に迫るように感じられた。

ああこの虫は何のために鳴くか。何のためでもない。 生殖に有利だからとか、そんな次元では片付けられない、私と虫がたまたまに近くあるという状況、そしてその状況における虫と私は、ただ鳴くもの、ただ歩くもの同士として、彗星同士が接近するように、異なる物事の布置を一瞬間演じたように思えた。

しかも、ただ歩いていたものと、ただ鳴いていたものがある時間ある場所を共有していたと、こうして思い出すことができ、思い出すときにしか、あるものとものの布置は現れないのだった。もともとをたどれば、歩いていたものでしかなく、また、鳴いていたものでしかなかったし、ひいては、何もなかったのだった。ただ今は、こうして後から意味付けようとしているだけのことなのだった。

人生はボーナスゲーム

どんなに辛いこと、悲しいこと、耐え難いこと、苦しいことがあっても、何も失うものはないのだと考えながら生きるようにしている。

陰口を叩かれても、別に手足が断たれた訳でもなし、心は自由なまま何も変わらない。仮に誰かの手によって、手足を断たれたとしても、究極のところ、何も失われてはいない。

「生きてるだけで丸儲け」とはよく言ったもので、何はなくてもこの命がある限り、手元にあるカードが増減することはあっても、ゲームに参加し続けることができる。ゲームに参加していれば、いつでもどこでも、新たなカードを手にする機会がある。それは利を得るだけではなくて、単純に見れば損失であるような物事も、この命のゲームの大局に立ってみれば、何らかの形でカードを得ているものである。プラスしかないのだから、人生はボーナスゲームだと言っても過言ではない。

そして、プラスしかないのなら、「プラスマイナス」という物差しは、常にもっていなくてもいいことになる。自分事であれば、ボーナスゲームのただ中で一喜一憂するよりも、移り行く物事のしっぽをつかまえて、どんなカードであり得るのかを考えて生きればよく、他人事であれば、あえて「プラスマイナス」の物差しを持ち出して、どうすれば相手にとってプラスかを考えて生きればよい。

今日の回文

答えつかめていなくて駅へ消えてく泣いて目餓えた子

(こたえつかめていなくてえきへきえてくないてめかつえたこ)

 

禍知りなと 今やや病となりしか

(かしりなといまやややまいとなりしか)

 

まだめくら 日に日にひらく目玉

(まだめくらひにひにひらくめだま)

 

隣視界赤い 恋か愛か知りなと

(となりしかいあかいこいかあいかしりなと)

 

暴力の神・まどかとの反暴力的な共生

まどかマギカになんと続編劇場版の制作が決まったということで、前回のあらすじと今後のほむらの展望を考える。

 

少女の夢や希望をエネルギーとして搾取する暴力的な構造に対抗して、世界を上書きする「法」という究極の暴力の化身となったまどか。対抗暴力が全うされたことを自覚できる唯一の人格として世界の空隙に投げ出されたほむらだったが、前世界を牛耳った構造の復権への恐れと、他ならぬまどかからほむらに対してさえも振るわれた暴力への深い怒りにより、更なる対抗暴力として悪魔的な力を得る。かつて暴力の繰り返しに苦しんだほむら自身が、暴力の繰り返しそのものに身を晒していく倒錯に愉悦するかのように微笑んで幕となった。

 

インキュベーターが人間世界に対して行なった操作と、まどかが行ったそれとは、暴力という点で共通しており、まどかは受けた暴力に対して、圧倒的な暴力で返したに過ぎない。ほむらにとって致命的だったのが、まどかが暴力的概念に進み出たときに、魔法少女を過酷な運命から解放するという願いの裏で苦しむことになる者たちの苦しみが、まどかからは見えなくなってしまったことだった。ほむらとインキュベーターは同じ暴力に組み敷かれた者同士としてある。

 

ほむらは新しい力を得て、法的概念からまどかの人格を一部析出することに成功する。まどかのしたことは、やはり横暴だったのだと、これからほむらはまどかに懇々と諭すのかもしれない。まどかの一部だけでは話が通じないとなれば、そのまどかの一部を道具のように使ってでも、まどかのすべてを取り戻そうとするだろう。まどマギファンのみんなが2次創作で消費する日常のように、本当にバカで弱弱しい非暴力的な青春に退行しないで、かつ、暴力のゲームにも巻き込まれずに逃れ出て、反暴力的な意志をもって、誰も得しない共生の道が示されてもよい。つまり、インキュベータは効率の悪い方法でしか人類からエネルギーを採取できないし、まどかは魔法少女の苦しみを救いきれないし、そんな状況に追いやったほむらに対して、反発心を抱いてしまうのではないかということだ。

愛の歌はいつ贈られたか Awesome City Club『ceremony』考

Awesome City Clubの『ceremony』を繰り返し聞いている。この歌には、大切な何かが眠っており、頭で追って考えてみたいと思うのだが、ずっとおしゃれなリズムと歌唱が反復しているせいで、何も展開されてこないので、ここで考えてみることにした。

 

まずなぜこの歌は「ceremony」なのだろう。歌詞を見て見ると、意図的に「ストーリー」「プロローグ」という言葉、「結末」「ラストテイク」「エンドロール」、そして「エンドロールの向こう」が配置されている。これまでによくあったラブストーリーでは、運命の男女が出会って、恋愛のドタバタがあって、結ばれるまでを物語としてきた。せいぜい結婚式までが描かれるのが普通で、結婚式というイメージは、あり得たかもしれない幸福なルートとしての結婚(および生活)を物語の受け手に呼び起こす。

 

『ceremony』では、ロマンスとは程遠い平凡なカップルのささやかな出会いから結婚までが「プロローグ」の1語でまとめられている。彼らにとって結婚式という儀式は、使い古された愛のイメージでしかなく、本当の愛はそこにないという確信を分け持っている。

 

ラブストーリーでいうゴールを迎えてしまった後、ほとんど平らな生活が限りなく続いていくように見え、また実際に続いていく中で、ドラマチックではない愛はどこにあるのか。「結婚式」ではない新しい愛の「儀式」はどこにあるのかが、この歌のテーマではないか。

 

『ceremony』の時間感覚は不思議で、「これまで」と「これから」 が同じレベルで並んでいるようだ。時間の奔流の最中にあるのが、ラブストーリーの主人公たちであるとすれば、時間の流れから一歩引いて、自分たちがどういう状況にあって、人生全体で今どの位置にいるのかを理解しているのが、『ceremony』のカップル像である。

 

よくある恋をして、よくある結婚をし、どこかにもきっとあるのだろう生活を楽しんでいることを自覚している、うっすらとした悲しみすら感じられる。このような感覚の背景には、SNSのある生活が浸透して、他人がどんなことをしているのかが見えやすくなったことも影響していると思う。

 

実はオリジナルなことはどこにもなく、一挙手一投足に、過去の参照元があり、未来における再現可能性を感じてしまう。どこに、私たちが私たちとして生きていく縁(よすが)があるか、切実なアイデンティティーの課題が生活に影を落としている。

 

『35歳の少女』というひどいドラマを取り上げたい。10歳の時に遭遇した事故の後遺症で昏睡し25年後に目覚めた、体は大人、心は子供という逆コナンの少女/女性が、25年の間にぶっ壊れた家族をどうにもできず、登場人物全員信じられないほど傷つき、しまいには母親が心労で死んだあとようやくそれぞれ歩み始めることができるようになったという物語だったのだが、徹底したアンチファミリーストーリー、アンチラブストーリーに振り切ったグルーブ感が面白かった。

 

『35歳の少女』では、一戸建てのリビングのテーブルを家族で囲んですき焼きを食べることが、幸せな家族のイメージとして描かれ、すき焼きを食べれば仲睦まじかった過去の家族に戻れると主人公が信じているシーンがあった。

 

結局、家族4人そろってすき焼きを食べることはできなかったし、仮にすき焼きを食べられていても、家族が元通りになることはなかったことは間違いないし、その元に戻らない感じが一層強化される絶望の食卓になったことだろう。それが分かっているから誰もすき焼きに応じなかった。

 

すき焼きという手間のかかる、特別な食事の儀式は、25年の間に力を失っていたのだ。

 

かつて多くの儀式が生活に組み込まれ、明確な力を持っていたように思える。あれこれ用意して新年を迎えるとか、成人式に緊張感をもって臨むとか、結婚式に輝かしい憧れを感じたりしてきたことがそうだ。

 

でももう、儀式的なことは一切しなくなってしまった。金銭的な問題もあるし、そういうことを大事にする価値観を失いつつある。価値観の変化自体を嘆く思いはない。ただし、これまでにない新しい悲しみは生まれていて、悲しみを癒す新しい思想が求められている。

 

バラバラになってしまいそうな 「これまで」と「これから」を、辛うじてつなぐ愛の歌は、人生の結節点ではなく、何でもない生活のシーンにおいて歌われる。未来の行く末がどうなるか、ほとんど予測できており、退屈に感じてしまいそうにもなるが、他ならない「君」と2人で生活することに、かけがえのない意味を見いだそうとする決意を愛の歌として贈っている。

 

この曲を歌おうとするときの心のはたらき、一瞬の決意こそが現代の「儀式」であり、特定の時間と空間を区切って変質を促すこれまでの儀式とは全く性質が異なる。

 

時間を俯瞰する視点を得てしまった人たちにとって、毎日の生活のいたるところに愛を歌う機会が潜んでおり、どれだけそれらを逃さないでいられるかという緊張感が生活を覆うかもしれない。儀式が一時的に受け持ってきた大きな緊張感を、日常に引き延ばしてもっているかのようであり、かなりしんどいことだろう。

 

しかし、私たちは、そのように生きることを選択しつつあるのだし、せめてこのうっすらとした、根深い悲しみを負って歌おう。ただし真面目ではいけない。どこか軽薄に、おしゃれに歌うことだ。

いつも見ている

いつも見ている人がいないから、今日はサボろう、サボってもいいと考えることが多いが、自分がそれを許していない。許していないけれど、サボっているので、どちらかを諦めなくてはいけない。許さない、という考えを止め、許すことにするか、サボらないことだ。

また、サボらなかったといって、すぐさま仕事が進むかというとそういうわけでもない。いや、やっぱりサボらなかった分だけ、仕事にはリターンがちゃんとあるんだという経験が積み重なってきたようだ。サボらないことのメリットが実感できてきた。サボらなければ、結局良いことあるだろうなという前向きな気持ちが湧いてきていて、しかも、そちらに向かっていこうとも思える。

茶店の空間に後ろ支えされながら、なんとか考え込むふりをしている。

いつも見ている人がいることは素晴らしい。そこで見ていろ、今に見ていろと自分を鼓舞しやすくなる。アクションの起因が自分の外にある方が、動き出しのエネルギーが少なく済むことはある。

誰も見ていなくても、やはり、自分が自分を見ている。その感覚から離れることができない。本当は、自分なんか自分で見ていなくても、為すべきことを為すべきときにできるようになっているべきだ。自分だろうが他人だろうが、誰かに見られているという感覚を元に、重い腰を上げようとすると、行動までに一枚、見る/見られるの関係への意識が挟まる分だけアクションに不純物が混じる気がする。

話は変わるが、誰かに何かをお願いすることがすごく苦手なのだなと思った。改めて課題として見ようとすると、そもそも何かをお願いすること、されることの経験が、自分には少なかったような気がしてしまう。絶対そんなことはないんだけど、誰かにお願いをする、つまり、自分が何を希望していて、その希望を叶えられるのはその誰かだけ、という状況になった記憶があまりない。そういう状況になる時点で、自分にとっては不愉快なので、避けてきた認識は持っている。だから、過去の記憶の都合の悪い部分だけ記憶していないのかもしれない。

逆に、誰かにお願いされることにも違和感を持っている。する/されるの回転スピードに棹差して早めるのが仕事の側面のひとつだとすれば、お願いすることもされることも経験を(否応なく)積んで、メリットを実感しつつ、アクションを自発的に起こせるように変化していくことが求められている。と、自分は思っている。

リアルの他人に見る/見られるの渦中に居続けているときこそ、自分で自分を点検する意識が不足するので、そういう時間が必要なのは確かだ。

私たちは攻撃されている

私たちは攻撃されていると、思わないだろうか?これは、『鬼滅の刃』の炭治郎が、下弦の一に精神攻撃を受けていることを、強靭な精神力で見破った際に、自身に言い聞かせるようにして「攻撃されている」としゃべっていることを言っているのだが、炭治郎が活躍した物語に留まらず、そのような物語を擁するこの世界において生きる私たちもまた、今、攻撃されていないだろうか?

炭治郎と同じように、私たちもまた、「攻撃されている」と気が付くことができなければ、そのまま頓死すると言う確信を持っていないだろうか。持っている者からすると、持っていない者が非常に哀れに見えるのではないか。下に見ているとかいうのではない、峻厳な事実として、もうこの国は、弱い者病める者を等しく救う体力がないのだと、気弱な所や無策をさらせば、立ちどころに搾取され、果実を奪われるのだと、そう思わないだろうか。

King Gnuの『三文小説』を聞いたところだ。これは私の基準でいえば、「生活系物語」である。やはり同志はいるのだと感じ入った。暗闇を正しく暗闇と捉えながら、自身の破滅を覚悟しながら、一歩を踏み出さずにはいられないこと、そして同じように一歩を踏み出す者を祝福する新世代の英雄像を引き受けて、鳴らし切るその音楽のスタンスが本当に素晴らしい。「設定」や「属性」といったものに書き換えられてしまった「三文小説」のような世界において、その先を騙ろうとすることのいかに難しいか、なぜかそれを私は理解している。私たちは皆、等しく無価値に近づいており、しかしそれでもこの命を引き受けた限り、無価値の炎を燃やさねばならぬ。

なぜこんなに絶望が押し寄せるのだろう。何か大きな守りを失ってしまった。荒野で永久に実りのない日々にあってなお生きねばならないこの気持ちは何だろう。私たちは何に攻撃されているのだろう。攻撃されていると気づいてしまった者は戦わなければならない。戦わなければ自殺するのと同じだ。

なぜ『鬼滅の刃』がヒットしたか、その原因を「設定」や「属性」に見いだそうとする人々のなんと多いことか。頑張った炭治郎。炭治郎の頑張りは、もはや物語内ではなく、私たちの心に突き刺さっている。お前たちも戦えと焚き付けられている。その、ある意味での批判に私たちはたじろいでいる。私たちの心の空隙を突いて代理で炭治郎は戦ってくれて、勝利し、私たちに暗闇における光をもたらしてくれた。だから私たちは『鬼滅の刃』を愛してしまうのだ。