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生活するために書くブログ

孤独を取り戻す

「独身40代の孤独」の正体とは - セカイノカタチ
https://qtamaki.hatenablog.com/entry/2018/09/04/232627

40代の孤独についてのエントリを読んだ。今自分は孤独じゃない。

パートナーと互いに頼りあっている。もしかして割と危ういのではないか。どちらかが滅びれば、共倒れになりそうだ。それぞれが自律しているのを横目に見ることで、何とか個で立っていられるメソッドがあるらしい。そういうの、結局相手に折れたくなくて意地張ってるだけで、横やりで破れやすいという欠点があると思う。

自律がなんだ、自立がなんだ、という気持ちもある。それぞれが半人前、二人で一人分なら、中島みゆきの歌のようでいいじゃないか。魂はデフォルトで半分、というのが好みの思想。人間ひとりで充足できるようにできていない。そりゃひとりで生きていけるなら結構なことだけど、死ぬまで強く貫いてね。あとから弱音を吐くなら最初っからやめとけばいい。

孤独に生きられるかどうか判断するなら、理性による判断が上手かどうかというより、今この瞬間に遠い未来を直覚するかどうかだ。直覚のための回路を体に通せるように身を開いているか。

ごくごくつまらない些事が爆発の引き金になることもある。爆発とは感性のフロンティアの前進、踏み込んだ先に落ちているものを拾って、自分のすべてについて意味が塗り替わってしまう危機だ。異物を飲み込む感覚、元に戻れない絶望、そういうものが発生する余地をなくしていく傾向がある。

人は、一日のうち、1秒も努力しないで生きていることができる。時間が経ったというだけで価値を帯びてきてしまったものだけを愛でていられる。そうして孤独になる。他人ではなく、自分と切り離されることによって。

孤独になったら、自分を引き取って、どうしようもなく変わっていかなければならない。究極には、目に映るあらゆる物事は、孤独を霧散させる力をもっている。力はすべての人に平等に、一方的に、攻撃的なまでに放たれてある。だから孤独は自然に起こらない。孤独とは、努力しないと実現しない、精神的建築の達成だ。

孤独は、直覚が開く危機から身を守る盾として用いられる技術である。しかし技術であったはずの孤独に囚われている、という思いがあるならば、もともとその孤独を作った始めの気持ちを忘れたのだろう。孤独を自分の手に取り戻すには、孤独であり始めた時のことを振り返る必要がある。過去への道を空けておくことが、なぜか、未来の直覚につながる。そういう風にできているのが人間だと思っている。